映画の感想:少女邂逅

2018/08/23木曜日

少女邂逅』という映画を観てきました。

MOOSIC LAB 2017の作品。

枝優花監督と、「転校生」名義でも活動していた音楽アーティスト水本夏絵のコラボ映画。

 

名前をよく見かけていて気になっていた監督と、高校生の頃に繰り返し繰り返し聞いていた水本夏絵さんのタッグということもあって、とても見たかったし、去年の上映が東京だけだったのを酷く嘆いた記憶もある。8/18から1週間、京都の出町座で限定公開されると知ってやっとの思いで見に行けた。

感想を一言で表すと、心臓をガーゼで優しく包んで握りしめられている感覚のする映画だった。

 

ミユリと高校生の頃の自分が重なって見てられなかったし、紬の言葉が酷く刺さった。

共感、という言葉を安く使うのが嫌いで、自分と他の誰かや創作の中の人物、全然違うのになんで一緒だと思うんだろう、とか、どれくらい目を瞑れば一緒だなんて思えるんだろう、とか、そんなことを思っていました。今でも思っている。

登場人物の気持ちとかを想像するのは楽しいし、例えば主人公目線を自分に置き換えて映画を見ることも多々ある。

けど、こんな風に実在した昔の自分と登場人物を重ねてしかも感傷に浸るなんて初めてのことで自分でもどういうことなのかわからなかった。

安易に共感したとか言いたくないけど、たぶん共感したんだと思う。

苦悩も願望も空気の読めなさも逃げの決意もまるで高校生の自分を見ているかのような不思議な感覚の中、主人公として描かれるミユリの感情を想像しながら、苦味とある種の懐かしみを味わいながら終わりまで心臓を握り締められていた。

 

女の子2人に主題が置かれた映画ということで、ミユリと紬の関係性の移り変わりがこの映画の肝として描かれている。

「君だけでよかった 君だけがよかった」

という映画のキャッチフレーズが効いていて、この映画を見ているうちは、ミユリから紬に向けての言葉として受け取っているこのキャッチフレーズが、終わりに向けて物語が進んでいくうちに、むしろ紬からミユリに向けての言葉じゃないかという考えが浮かんでくる。「よかった」という過去形なのが哀しい。共依存とも言えるふたりの関係性が気持ちは同じなのに決定的にすれ違っていくのがもどかしい。

多分ミユリはどこかで依存している自分から脱することを必要と感じていて、東京の大学への進学を望む。でも進学が叶ってもそれがついに最後まで叶わなかった現実に気づく。それどころか「私には依存してない紬」と「何故か私に執着している紬」の両方が混ざり合った感覚を抱いていて、ついに最後、「紬こそ、私に依存していたんだ」と気づくことになる。「紬が自分にだけ見せてくれる紬という人間」と本当の紬本人のギャップを突きつけられたミユリ、それまで感じてなかった「自分こそが『蚕』なんだ」と気づかされるラストシーンは必見。紬が蚕に寄せていた重ねていた思いの根本に気づいたミユリは、東京へ向かう電車の中で何を思っていたのだろう。あの時の気持ちは想像しても言葉にできない。

 

そしてこの映画は2回見たのですが、1度目見て気づかなかったことに2度目で気づくみたいな(まあよくあるやつ)ことを経験しました。

1度目見ただけでも面白かったけど、2回目では"馨"の存在の可能性に気づかされる。

この映画で、クラスの女子を引き連れてミユリをいじめていた馨、紬が援助交際でお金を稼いでいることをミユリに明かす馨、街を出る寸前のミユリに紬が死んだことを伝える馨。終始ミユリが忌み嫌うそぶりを見せるものの、何か引っかかりのあった馨の存在が、2度目ではまた違った見え方をした。

母とミユリの食事シーンでの母のセリフの"カオルちゃん"も近くの大学に進学するから、ミユリもそうしたら?と何気ない提案の中のカオルちゃんこそ馨なのだし、紬の援交を伝えるシーンでもアルバムを見返して、たこ焼きを家族で作って食べた時のエピソードを蒸し返したり、極め付けは、本屋で沖縄のガイドブックを見ているミユリと紬の二人を店の外から見ている視点のあのワンカット、ミユリが視点に気づいて店外へ目をやるとその視点もはけるようにフレーミングする。明かされてはないけど、あれは馨視点なのだろうな。この映画の中でミユリ視点、紬視点以外には、馨視点のこのワンカット以外には人物視点の映像はない。思い返せば思い返すほど、馨という人物のこの物語での主張みたいなものが大きくなっていく。

紬を尾行して援助交際を突きとめた馨、何が目的でそこまでするんだろう、と2回目で引っかかりが大きくなってモヤモヤした。最終的には、馨に関しての映画内での描写はそれ以外にはあまりにも少なく、想像で補うほかないのだけど、馨も、ミユリに対して何らかの執着、何らかの依存心を持っていたんじゃないかなと。

序盤にミユリの拠り所だった蚕を「お前いつまでこんな狭いところにいるんだよ、私がもっと広い世界を見せてやるよ」と小さく呟いて森に投げ捨てるあのシーンが鍵なんだろうなとは思う。

この映画『少女邂逅』において、「邂逅(カイコウ)」と随所に出てくる「蚕(カイコ)」はかけられているのは、まああからさまなくらいなんだけど、つまりは「少女=蚕」という構図も示されてると考えられるわけで、馨はグズグズしてるミユリに対してイライラしていて、いつまでそんなところにいるんだよ、お前はそんなところにいるやつじゃねえだろ、と伝えたかったのか....??とか思ったり。(じゃあそもそもいじめてんじゃねえよ、とも思うが)

「現実見ろよ」ってセリフもなんか高校生活そのものが虚像なんだと言っているような気がしなくもない。というか、そういう風に考えないと、わざわざ紬を嗅ぎ回って援助交際証拠写真を撮ってミユリに突きつける意図がわからないし、ミユリが髪型を変えてクラスの子らに受け入れられ始めてからいじめの描写がなくなったのも「ミユリが外に向けて歩み始めたから」なのだろうか。なんにしろ描写が少なくて本当に想像に頼ることしかできないけど、馨が重要な役どころなのは間違いないと思う。

馨については、これまでの出来事とか事細かに年表を作って人物像を設定してあるとのことだし、映画としてカメラにおさまってない馨視点での心の機微が本当に気になる。

自分の感覚だと、紬は自分が"蚕"だと確信していてそれに抗った人物として、ミユリは自分が"蚕"だと最後に気づく人物として、馨は自分が"蚕"だと気付いてそれを受け入れた甘んじた人物としてそれぞれ対比できるように書かれてたのかな、と。

「どこらへんが女の子2人の映画なんだ。3人の映画じゃないか」とすら思う。

 

まだ映画館で観れる機会があるようなので、3度目も考えている。追記するのか、紐付けるのかまだわかんないけど、楽しみだ。

 

 

追記

この作品のアナザーストーリーとして、YouTubeにて『放課後ソーダ日和』(全9話)が公開されている。これの感想も併せて書き残しておきたい。