2018/09/20(thu)

この日、初めて乗っていた電車で人身事故が起きた。

緊急停止になんだなんだと思っていると人身事故のアナウンス。目の前で座っている乗客は怪訝そうに眉をひそめていた。

日付も変わりそうな遅い時間帯での人身事故。

疲れている(であろう)人でごった返してた車内はこもった空気とたくさんの人のため息で濁っていた。

繰り返される「しばらくお待ちください」のアナウンスをその度に耳を傾けては肩を落とす乗客たち。「これって本当に人身事故が起こった車両なんだよね」と疑いたくなるくらいに穏やかに淀んだ空気が満ちている。他人のことなんて、文字通り他人事だけど、人の生き死にが関わっているこの場においても、徹底的に絵に描いたような他人事を貫いているひとたちに抱いても仕方ない不信感を抱きながら、車両の外でせわしなく行き来する警察や消防の様子を見ていた。担架に乗せられ、ビニールシートをかけられた何か大きなものが運ばれていった時こそ、ピンと張り詰めたような気はしたものの、それが数十分前には自分たちと同じように生きていた誰かかもしれないことだと実感しているような実感していないような、今まで感じたことのない"変な"心地のする空間だった。

(きっと、こんなふうに自分は違う、と主張したいみたいなことを偉そうにつらつら言っているけど、他人事だからこんな風に文章が書けるんだろうなと思う。他人事だから、同情できるし、他人事だから、他人事に感じている他人を気にかけれるのだろうか。なんか嫌だな)

 

電車は1時間ほど停止したあとで、警察・消防への申請が通って動き始めた。その人が、どういう意図で飛び込んだのかわからないけど(そもそも自分の意思で飛び込んだのかもわからないけど)、たかだか1時間ぽっちで、再開できてしまうんだな、と思った。

たった1時間、想定外の雨に降られて足止めをくらった、みたいな、ああクソついてないな、みたいな、誰も口から漏らしてはないけど、なんとなくそういう雰囲気を感じた。「人身事故」も今のご時世決して珍しい話ではない。日夜どこかしらで起こってるし、今までもそれが原因の遅延に巻き込まれたことはある。その時の自分もたぶん「ヤバい、間に合うかな」くらいにしか思ってなかったと思う。そんなことも思い出しながら、つり革に腕を通して、若干の体重を預けて、電車の再開を待っていた。

 

このことを知人に話すと「だけど、それで君が気に病んでもどうしようもないよ」みたいなことを言われた。その通りなんだよな、と思いながら、何がショックだったのか思い返してみた。知らない誰かが命を落としたことなのか、人の死に直面した人々の関心の薄さなのか、たった1時間で運転が再開したことなのか、今でもちゃんと言えない。

 

ふと、昔は公開処刑なんてしていて、見世物になってて、どういう心境はわからないけど、見に行っていた人も居たんだよな、とかツイッターで見た程度だけど、ビルの屋上に立っている人に対して、「早く飛び降りろ!」「早く楽になれ!」とか声をかけていたりとか(その後、お酒に酔って風に当たっていただけ、ということらしいとわかった)、自分の認識している以上に人は知らない人の生死に関して無頓着なのかもしれない。

 

 

それぞれ人の考え方は自由だけど、やっぱりその人の最期の選択を「間違いだった」とか言いたくないって思いが強い。何が正解で何が間違いかもわからないし、そもそも人間は生きていてどうにかなっている人しか今生きてないのだから、死ぬことでどうにかなる人のことはこれから先もずっと知れることはないんだ。だからこそ生きていれば、っていう希望を言いたくなるのかもしれないな。

 

実は下書きにずっと書き加えては下書き保存して書き加えては下書き保存している自殺についての文章がある。

書ききれるのかわからないけど、いつか書き上げれたら。

 

 

最後にもう一度、自殺を肯定しているわけでも推奨している訳でもないです。叶うならば納得できるならば生きていて欲しいです。

ただ、盲目的かもしれないけど、息絶える最期の瞬間まで純粋に「死にたい」と願いながら生きた人に対して、テンプレートみたいな「生きていればどうとでもなるのに」という文句への違和感と、僕の感じた人身事故車両内の空気感を受けて思ったことを書きたかっただけです。