最近のこと

最近、人生で割と大きな転機が訪れて、もっと歳をとったら小さな出来事として振り返るかもしれないけれど、とにかく生活のリズムと行動範囲が大きく変わった。

その影響もあって、このご時世あまり大きな声では言えないけれど、外でお酒を飲む機会が増えて、人と会う機会も多くなった。

そこでお会いする人たちは、映画、音楽、文学、漫画、いろんなカルチャーに造詣が深くていつもいろんな話を聞かせてくれるし、決して若くはない若造の話を聞いてあれよこれよと答えてくれる。

 

そこで、志村貴子先生原作の映画「どうにかなる日々」を見た話をしてた際に「こういう話が好きなら」と小説を勧めてもらった。

千早茜先生の「からまる」という全7話からなる短編集。

大きな起伏があるわけでもなく、大どんでん返しが待ち構えているわけでもなく、どこかのだれかの生活の延長線上にあるような、そんな日常的な、でも非日常な様子を近くもなく遠くもない場所から眺めているような物語。

確かこんな話が好きだとわやわや説明して勧めてもらったような気がする。

そしてこんな抽象的で自己完結してるような説明で、こんなにも的確なお勧めができるのかとただただ頷きながら読み終えた。

 

 

趣味や好きなことで、音楽・映画・漫画・読書、ここら辺をあげることが多いけど、実態は(気に入っている)音楽・(稀に見る)映画・(特定の作者の)漫画・(たまたま手に取った文庫本で)読書くらいで局地も局地的な見方をしていると自分でも思う。

別に○○のこと知らないならほんとの好きとは言えない、みたいなことを言いたいわけではないし、むしろその考えは嫌いまであるんだけど、それは好きなものを俯瞰して体系的に、時系列を加えて見て整理できている人へのやっかみとかあてつけに近い気もする。

自分は何かに触れるときに、どういう過程を経て生まれたか、とか、時代背景は、とか、作者のバックボーンは、とか、そういうものをあまり重視しないで、刺さるか刺さらないか、みたいな抽象的で主観的なものを重視しているの節がある、と思う。

まあそれも楽しみ方の一つだよね、と言ってしまえばそれまでだし、実際それで十二分に楽しんでいる。問題は何もない、はず。

だけど、経験が人を形作るみたいに、触れてきた文化がその人となりを形成するなら、表層だけを舐めとって喜んで過ごしていたら、他人から見た時の自分の人となりは何もないだろうなあ、と。

これまで自分の好きなもののことはデカい声で「好き」って言えるし、別に言えなくても自分の中で完結してれば満足だった。けど井の中の蛙じゃないけど、いろんな人と接すると「この人は自分のまだ知らない自分の好きなものを知ってる。知りたい」みたいな気持ちが出てくるし「この人の喋りの面白い部分をもっと聞きたい。そのための知識量が自分にはない」とちょっと悲しくなったりもする。

 

まあ、知る努力をしてください、というところにしか行き着かないんだけど。

今回もまとまりのない話。まとめる努力もしましょうね。

 

おわり。