本の感想:コンビニ人間

コンビニ人間 / 村田沙耶香

 

芥川賞を受賞した当時、目にする機会が多く「読んでみたいなあ」と思っていながら結局読まずじまいだったのですが、文庫になったとのことで。

読書、好きになって日が浅いし、読むペースも遅く、自分が好きそうなタイトルを引き当てる目も養われてないので、とりあえずこういう受賞作や文庫になったものは個人的に手に取りやいし、大きく「合わなかった......」みたいなことにもならないので自分の中で指標になってます。便利です。長々とそれっぽく書きましたが、ミーハーです、ということです。

 

 

具体的に病名が出てくるとことはないですが、発達障害アスペルガー症候群のようなカウンセリングで「治療」する「病気」の主人公。

社会の中での生きづらさを抱える一方で自分なりの解決方法や対策があり、悲観や絶望はなくまた不満を覚えることはあれど、強い反発心や敵意を露わにすることはなく、冷静に淡々と状況を把握するよう努めている。努めているというか、そういう人物。

これまで「異物」と扱われてきた経験から、周囲の環境から少しずつその成分を汲んで「『普通』の人」のフリをすることで生きやすい環境を維持して生活している。

「異物」は「多数」から「削除」される。それが「常識」の社会。でも「異物」からすればその「多数」こそが「異物」で、当たり前なんだけど。そもそも「多数」とはなんだろうね。皆頑張って肩並べて「多数」に属した気になっているだけで、「多数」も「異物」も架空の現象だなあと思いました。思ってます。同じだけど同じじゃない、そんなことみんな分かった上で、「共感」とか「同じ」とか「多数」とかを字面とはズレた現象に当てはめてる。赤子から育っていくうちになんとなーく察して、それとなーく肩を並べて、知っていってるのに、見方によっちゃ知らなくなっていってるみたいだ。赤ん坊の方がよっぽどものを知ってる。

 

そんなことを思ったりした本でした。

下書きの墓標 3番地

供養供養。

 

 

夢か 

 

どうやら夢オチが足りてないらしい

#ゆと打って出てきたものがお前に不足

つい先日「警察!!」って叫びながら飛び起きました。夢でした。

 

朝っぱらからド下ネタで申し訳ないんですけど、昨日届いたスパムからのライン、これつまりは僕が犯されるってことなんですか?

「犯させよう!」ってメッセージが送られてきたときのもの。僕が犯される側派と、寝取らせる側派と意見が分かれました。なんの話だ。

 

刈穂 気魂の辛口

常連のお姉さまと相席になったよ〜

誕生日、キョンキョンさんという方にお酒を一合頂いたときのやつ。後で文面変えてツイートしたね。

 

人の"いいね"はわりと時々「おっ💡」ってなるのでいいけど、自分の"いいね"はフォロワーのTLに表示させたくない

WA・GA・MA・MA

 

クリスマスは家族と過ごすようにしてて

今年のクリスマスイブに帰省する予定を立ててて、もし忘年会など誘われたときの言い訳を考えています。このままだと変な流れになりそう。

 

サビでみんなして手挙げてグーパーグーパーしてんのあれなんなんやろう....

ロックバンドのライブ、曲中リズムに合わせて観客が右手上げてグーパーグーパー繰り返してるの本当に意味がわからない。イソギンチャクみたいで気持ち悪いくらいある。

 

深夜だしお酒入ってるしケロっちゃう。この間飛び込みの人身事故の車両に乗り合わせたときに思ってしまったことがあって、自殺を肯定するわけでもなく、生きてればなんとでもなるよ、とも思うけど、その人が生きているうちの最期の選択として自死を選んだことを否定したくないな、と。思いを巡らせるべきは、その人があらゆる天秤をかけた結果、自死に傾けるに至った環境であって、その人が例えば「間違った選択をしてしまった」とは思いたくない、という自論。漠然と生きてて欲しかったとも思うけど、「正常な判断ができてなかった」ってあんまり思いたくない。でも生きて欲しい。人間は結局死後のことは知りえないし、辛いことがあっても生きててなんとかなったひとの経験談しか知らないかのでアレだけど、「あいつは病んでしまったばっかりに最後に最大の間違いを犯してしまった」とか思いたくない。

140字じゃ足りなくなって結局ブログに書いたね。ついでに言うと、間違いだと思う人のことを否定したいわけでもないのよ。人それぞれ信じてるものが違う。当たり前。

 

ずっとなにかしら文章の形で残したくて、高校生のときの病気の話と、小春の話、チョビの話、京都について、自殺について、それぞれ下書きに少しずつ書き溜めてるけど、全部が全部互いに影響し合っているから同じ話何回もしてしまうしダメだこれ

5万字くらいになりそう。下書きにたらふく書き溜めてる。

 

冷静に、12帖の部屋で3点セパ、キッチンも独立、南向きに広いベランダのある部屋良いな

最近、これ真冬死ぬんじゃね?ってくらい寒さに弱い造りだと気付いて怯えてる。

 

ライブを観に行く、という文化が自分の中で発生したのが高校生の頃。福岡(博多・天神)に出るのもチケットを買うのも、なけなしのお小遣いをはたいて行って、特別な行事だったなあとふと。今でもライブが特別なのは変わらないけど、もし東京近郊に生まれ育っていたら全然違う感覚でいるのかな

ライブが身近な存在になりつつある贅沢な環境。ありがたいなと思いながらずっと居座りたい。

 

乗った車両、視界に女性しか居なくて「やば、女性専用車両だったか!?」て焦ったけど隣に男の人来たので安心した。そもそも

土日も乗ってた番号の車両も女性専用にならないのでした。

 

「お腹空いたなあ」ってなって、ご飯作るなり選ぶなりしてる最中に「あれ?もしかしてそんなにお腹空いてない?」ってなって、いざ食べ始めると「あ、これ足りないかも」ってなる理不尽。

食欲を断ち切りたい。

 

ある嗜好性について批判するのも擁護するのも自由だし、どんどん主張すれば良いと思うけど、その主張で他の人の思いの方向を変えれると思っているなら思い違い甚だしいと僕は思うんだわ。

「◯◯な奴は△△するからダメ」「此方、あなたの言う◯◯ですが△△はしません。一括りにするのはやめて下さい」毎日こんなやりとり目にしてると頭がおかしくなりそうだ。

もちろん、大雑把に一括りにしてモノを言うのは違うけどね。そこを訂正させたとしても、ある人の嫌だった経験は消えないし何の解決にもならない。愚痴るのは絶対的に排他されるべきことかね。多少口が悪くなることがそんなにダメなのかね。ずっとモヤモヤしている。余裕がない。動悸がする。

◯◯が好きな人、◯◯が嫌いな人、いて当たり前。それぞれ議論するといいと思う。そもそも対立してるわけだし和解とか目標にしなくていいとも思う。けど、エモノ握りしめて殴り合うだけって、双方何がしたいんだろう、と思う。思ってる。

ハラスメントハラスメント、という言葉が出来たんだって〜

 

今やってるグループワーク、次回ミーティングのお知らせがlineにslackに何度も飛んでくる。なるほどこれがありがた迷惑ってやつか。

まじでどっちかにしてくれ。8人しかおらんのやぞ。全員どっちかにまとめられるやろ....

 

深い、って感想「何のことか俺にはサッパリ分からなかったけど、なにかしら意図したことがあるは思うし、それには重要なメッセージがあると思う。サッパリ分からんけど。サッパリ分からんけど」って読んでる

あるイラストレーターの社会問題を背景にした絵の感想が「これは深い」ばかりで怖かった。

 

同期に一人、平気で酷い女性差別的発言をするのにモテたいだの彼女欲しいだの言ってる人が居て相当に不快なんですが、当たり前みたいな顔して過ごしていて、こっちに敵意を向けられているわけじゃないのに嫌っている現状に自分が消耗しててウケる。ツラい。

今まで出会った人間の中で一番不快な発言するやつ。

 

「今日こんなことがありました😡」「うわあ最低ですね。ほんとに◯ねばいいのに」「ですよね!ほんとにわかってない....」みたいな、同じ方向向いてわざわざそこにいない対象を罵るコミュニケーション(?)苦手

Twitterでよく見かけるこれ、嫌い。

 

 

3回もやってて、下書きを読み返す機会が溜まって気付いたことは、書き殴るだけ書き殴って投稿しない愚痴の多さね。

フォロワーのTLに現れると思うと愚痴って発信しづらいものね。

このコーナー(?)はいつだかに感じた鮮度失った気持ちを冷静に振り返れるから個人的に好きなのだけど、言葉遣いがそれなりに汚くて失笑しちゃうわ。

2018/11/14(wed) 夢の話

今日見た夢の話。

 

第一部【異形の種】

ふと目がさめると、自分の部屋のベッドで外は快晴だった。

午前9時頃だろうか。陽はとっくに登っていて、出勤や通学する人たちの気配がする。

カーテンから漏れてくる光が眩しくて、でもまだ寝ていたい気持ちもある。

いつものようにベッドに寝ころんだままうだうだしていると、バスの走る音が近づいてきた。

まずい。この音は「あいつら」が乗っているバスの音だ。

「あいつら」というのは、最近なにかと近所を騒がせている人の形をしたバケモノのことだ。

人の形をしているとは言え、人ではないということは一目でわかる。

大きく見開いた白目、くっきりと目を縁取ったクマ、首が異様に長く撫で肩で、細い腕を膝の下にまでだらりと垂らしている。

ここ2ヶ月ほど、近所で連続して起きている殺人事件、マスコミは沈黙を貫いているが近所では有名になっている。

「あの異形の種の目の前で、寝たフリをしていると殺される」

かく言う僕もその現場を目撃した。その時のことを詳細に覚えているわけではないけれど、確実に「あいつら」が目の前で寝たフリをしていた人をメッタ刺しにしているのを見た、という記憶と恐怖心が残っている。

警察は取り合ってくれない。マスコミもそうだが、何か圧力がかかっているのだろうか。

ここ最近でわかったことだが、あいつらは寝たフリをしている人間を誰でも殺すわけではない。寝ているか寝たフリなのかを見分けるのは普通の人間とそんなに変わらない。

しかし、視力がとてつもなく良く、家の壁くらいなら平気で透視するため注意が必要だ。

そして今、おそらくバスの中のあいつらの視界には、ベッドで横になっている自分が見えている。起きてはいるものの、一見寝ているようにも見える。ここで起きていることがあいつらにバレると殺される。幸いバスが遠く、スマホをいじっているところまでは見えていなかったようだ。もし、そこまで見られていたら......。心臓の音が早くなる。

バスの音が次第に大きくなる。あいつらの覗き込むような視線がいくつも感じられる。

早く行け。お願いだから早く行ってくれ。まぶたを強く閉じ心の中で強く願った。

バスの音が次第に小さくなっていく。どうやら寝たフリだということはバレなかったみたいだ。

よかった、と早く打つ心音を落ち着かせるように一息ついた。

あいつらはなぜ、寝たフリをしている人間を殺すのだろうか。そして、なぜ警察もマスコミも何も動いてくれないのだろうか........。

考え事をしながら、支度をして、家を出た。

 

 

第二部【麻雀牌】

「あれっ、牌の入れ物がない!住職に怒られる!どうしよう......」

友人で寺の息子の◯◯が慌てている。

不思議な力が宿るとされ、寺に祀られている麻雀牌を持ち出して、△△と3人で広げて遊んでいた時の出来事だった。

この麻雀牌には、一牌ずつ専用のケースのようなものが作られていて、その入れ物の方に何やら不思議な力が秘められていると信じられている。

それ故、この麻雀牌を狙う輩も多い。つい最近もこの麻雀牌を狙った大きな組織がこの一帯に潜んでいると情報が入ってきていた。

慌てる◯◯を横目に△△と目配せをした。「間違いない。例の組織だ」そう確信した僕は牌を広げるところまでタイムリープした。

「これが噂の麻雀牌だよ!」

何も知らない◯◯が牌を広げ、入れ物を斜め後ろへ置くまでを注視した。

「あっ!忘れ物した。ちょっと待ってて、取ってくる」

立ち上がり駆けていく◯◯と、フードを目深にかぶった小柄の男がすれ違うのが見えた。

嫌な予感がして、急いで杯と入れ物をまとめて胸元に抱きかかえ◯◯を追う。

麻雀杯に気が付いたような反応をしたフードの男が声をかけてきた。

「探しものをしていて、それが良く似ているのですが、よく見せていただk」

「すみません。僕急いでいるので」食い気味で断り、駆け抜ける。

麻雀牌の秘密を知らないと思われたのだろう。白々しい嘘を付いてきた。

一緒にいた△△に「この麻雀牌を絶対に安全な場所に置いておきたい。どこかいい場所を知らないか」と走りながら訪ねた。

△△は一度悩む顔をしたあとですぐ「高校の時の放送部の部室はどうだろう」と提案した。

高校生の時、△△と僕は放送部に所属していた。放送部、とは名ばかりで、実際に放送部らしい活動は一切したことがなく、放課後に元陸上自衛隊の隊長をしていた顧問の学年主任が淹れてくれるコーヒーを飲みながら、世間話をするだけの部だった。

この学年主任の先生が、高校の裏のトップだったようで、放送部の部室だけ優遇されており、厳重なセキュリティと高校の部活動に似つかわしくない設備が整っていた。

高校を卒業した今でも、学年主任の先生とは連絡をたまにとっている。

あの部室なら確かに安心かもしれない。足を止めずそのままかつて通っていた高校の門をくぐった。

後ろを振り返ると、何か確信を抱いたようにフード男が不敵な笑みを浮かべこちらを見ていた。

校舎内に駆け込み、部室へ向かうため渡り廊下へ向かう。

教室や廊下のそこかしこで生徒が愉快そうに談笑している。休み時間か、と考えているうちに部室の近くまで来たようだ。

ふと看板が目に入った。手書きの文字で「論文についての講演会中。30分と短い時間ですが、お気軽に入ってください」と書かれている。

部室と理科実験室は繋がっていて、理科実験室の方で講演会が行われているようだった。理科実験室を通らなければ、部室には入れないが、今理科実験室に入ることはできない.....どうすれば........

 

 

 

第三部【文化祭】

廊下を行ったり来たりしていると生徒たちがなにやらダンボールやガムテープ、マジックなどで作業している様子だった。

どうやら文化祭の準備期間らしい。移動中も友人の何人からか声をかけられた。グループに別れてそれぞれ看板を作ったり、企画を考えているといったところだろうか。

僕は用事を済ますため職員室へ向かった。途中の階段で同じクラスの友人たちと出くわした。

「お、つはるじゃん!あの時の見栄(歌舞伎の方)すごかったよ!」

「やめてよ、なんか悪者みたいで嫌だわ」

褒められて照れ隠しをしていると、同じクラスで片思いをしている□□が驚いたように「やっぱり!つはるくんは悪役になりきってたんだね!すごい!本物みたいだったよ。さすが、役者だね」と笑顔で会話に入ってきた。

「いや、□□の方がすごいよ。見たよ。舞台」□□は舞台女優として芸能活動をしている。

「私は、ただ歴が長いだけだから......それはそうと、役者、本気で目指したらいいのに」少し苦い顔をしながら笑ってごまかす□□。

「いや、まあ、本当は挑戦してみたんだけどね。なかなかどうにも......□□の演技見てたら敵いっこないよ」

「私はつはると一緒に演技したいよ」

どういう意味だろうか。言葉が詰まる。沈黙が流れる。

まっすぐで純粋な□□の目に吸い込まれる心地がした。この目を見ていたら隠しごとはできない、そう思った。

タイムリープしてる、って言ったら、信じる?」

「え?」

「時間を巻き戻すってこと。俺がタイムリープしてる、って言ったら、□□は信じる?」

真面目な顔して考え込む□□。右下に目を伏せ、眉をひそめながら何か独り言を言っている。

すぐにスッキリしたような顔になり「信じるよ!」とはっきりと答えた。

「えっ、そんなに簡単に信じるの?」驚くにきまっている。こんな突拍子も無いこと、どうしたら信じれるって言うんだ。

受け流してくれて良かったのに、なんでそんな顔で「信じるよ!」だなんて言えるんだ......

 

 

って感じの夢を見ました。

夢で見た内容をそのまま小説風?手記風?に書き起こしたものってなんて言うんだろうね。

夢小説?ゆめにっき?あれ、どこかで聞いたことが...........

 

覚えてる夢を見たら続くかもしれないです。続かないかもしれないです。

 

下書きの墓標 2番地

溜まったので。

 

こいいじ最新刊まめちゃんとソータ君の行き違いもどかしいし、河田さんまじでちょっと嫌いやし、ゆめ姉ちゃんグッジョブしかしねえな

好きな漫画の当時の最新刊の感想。今はまた新しい最新刊が出てます。

 

ハム太郎とリボンちゃん、こんな大々的に大きなハートに囲まれて「ひみつ」の想いの矢印が飛び交ってるのにハム太郎から一本の矢印も出てないのは......

ハム太郎サイコパスみを感じた時のやつだ

 

経験の冷蔵庫

マジで何も思い出せない。何を冷やしてたんだろう......

 

初めての夏!

これらは

急遽行くことにして良かった!

ぜんぶ

楽しかった......。散々迷って、とりあえず横浜線に乗り込んでみた朝の僕を褒めながら帰宅する。

同じ日の

初めての夏・初めての横丁、とても楽しんでる・楽しんだ!!よ!!!

書きかけの下書きたち

 

鳥居みゆきのダジャレセンスが最高に好き

それはそう。

 

ふと思ったんですけど、どこでもドアって扉に対して垂直方向の足の長さ短そうやし押し引き間違えたらすぐ倒れそう。

モーメントがうんたらみたいなやつ。何が未来的な力で地面に張り付いてるのかしら。

 

昨日気づいたことがあって、ファール取られてPKってなったときプレーが途切れるじゃないですか。このときサッカーわかる人は次のプレーが始まるまで固唾を飲んで見守ると思うんですけど、サッカー分かんない身としては「あっ途切れたんだ」と緩みがちなんですよね。ファールだけどファールじゃない。

野球とサッカーのファール違い。先輩とWCの試合を見ながら

 

SNSで日々各地で起こってるイベントの告知の画像を目にするけど、場所の情報が施設名だけだと距離的にいけるのかいけないのかも分からないから都道府県からの住所も入れて欲しいなと最近思う。

面白そうなイベント告知ツイート見て、住所に市町村からしか書いてないせいで、検索かけて遠方で悲しくなること多々。

 

高校生の頃、留年だったり卒業だったり間一髪で切り抜けたけど、こんな強いエピソードなかったな。時間割変わって移動教室になったのを知らせるために先生が校門で待っててくれたことはあったけど

留年かかった生徒が遅刻してきたけど、遅延証明書掲げてスタンディングオベーション、みたいなツイートを受けて。息をするかのように自分語り。

 

区内⇔自宅間の往復で厚くなくて軽快な本なら往復で読めちゃうことに気づいて、本をカバンに忍ばせる習慣がついたのは良いんだけど。入れ忘れたときになんかそわそわしてしまって本屋に駆け込むようになってしまった

人生24年目にして活字を楽しめるようになりました。オススメの本とか教えてね。

 

Twitterで得られる情報で信憑性のあるものなんてメンバーによる「お知らせ」ツイートくらいでしょうに

SNSで正しい情報得ましょう」とかいう文言を見て鼻で笑っちゃった。あるだろうけど、見極めが難しいよ。

 

だめだ。最近お昼ご飯食べる難易度が高すぎる。朝に起きてるのに気づいたらお昼時終わっちゃう

こっちに越してきてから、食生活が酷い。

 

もっと純粋に夏が似合う男の人になりたいわ

夏生まれだけど運動部に入ってたけど、意外だね、としか言われたことないわ。

 

多くの人が関心を寄せるか否かで何を取り上げるか決めるニュースって、危うい気がするのだけど

影に隠れた、埋もれた功績、沢山あると思います。認知度、名声が全てじゃないけど、機会が平等でないのはなんだか。

 

金曜のほにゃほにゃフライデーに続いて月曜もほにゃほにゃマンデーとか出てきて、もういっそのこと

うまいこと言えなくて断念。毎日がエブリデイだね。

 

やっぱり気配りとか気遣いとか自己犠牲とかの「相手のことを考えて」みたいながよくわからない。全部自分がしたいからしているのではないの。

一生ずっと思ってると思う。し、少なくとも、自分の行動の根源は全部自分の欲求だと思ってる。

 

何でもかんでもまっさらな状態で受け取りたいから極力予告編しか見ないで臨みたい。思ってたのと違うとか、そういうのさえも全部それを初めて見たときに経験したい。でもそれだと時間が圧倒的に足りない。何かを選択して、何かを切り捨てて、知らないままで生きてその後死ぬんだわ。

いつもネタバレブログで申し訳ない。けどこれは本心だから自分は絶対好きなことの評論家にはなれないのだと思う。自分の手の届く範囲でしか動かない動けないから愛おしいものは全部愛していく所存。

 

絶対羨ましくて悶絶するからと避けていた森見登美彦、手を出した瞬間気づいたら京都にいる

この夏帰省して四畳半神話大系読んでしまったせいで、秒で京都に戻ったときの。

 

ガールズバンド組んでギタボで愛を歌いたい人生だった

普段聞いている音楽、圧倒的に女性ボーカルのほうが多い。今聞いているのはチャットモンチー

 

何度もここで満月を見てきたはずなのに、なんだか特別な意味があるみたいに思っちゃうなあ。

京都から東京へ戻る日、図ったように満月で綺麗だった。

 

今日は映画館はしごするぞーって意気込んでいたら台風の影響すごくて結局家にこもりっぱなしだった

北部九州出身の人間は大小さまざまな台風を経験しすぎて、台風に関する危機管理が甘いため、時折来る強い台風に驚く。

 

今日は『若い女』明日は『カメラを止めるな!』明後日は『きみの鳥はうたえる』明々後日『カランコエの花』を、見る。予定。予定なので

若い女』はおもんなかったし、『きみの鳥はうたえる』はまだ消化できてない。『カランコエの花』は先程まとめた通り。『カメラを止めるな!』はまだ見れてない。感想もな何もかも避けている。そろそろ難しい。見なきゃ。

 

大仏建立の話に乗ると、例えば非常用電源とか積んでLEDとかで辺りを照らせる大仏を建てる話が出るとするじゃないですか。そしたらそこにも「不謹慎ダー」とか「大仏さまをなんだと思ってるんダー」とか出てくるんですかね?

昔では考えられなかったテクノロジーに対して、思想に合わせて思想も柔軟に変わっていけばいいと思う。けど、この間飲み屋でおじさんと話した中で出てきた「今あるのが当たり前だと感じている電気も無くなるリスクがゼロなわけではない」という話が印象的だった。物質性と精神性。

 

八王子にて、廃墟に「東京」と落書きされてて、切なくなった

誇らしげな字体がまた哀愁を帯びていた。

 

街で髪の毛ツンツンした人とすれ違って(サイヤ人みたいだなあ....)なんて思ったりした。数時間後またその人とすれ違ったけど、どう見てもひっくり返ったてんとう虫だった。重力ってすげえのな。

こういうのはその時の勢いでツイートボタン押さないと。時間経っちゃったらもう無理だもんな。この記事はこの下書きのためにあると言ってもいいのかもしれない。

 

憧れと嫌悪感は意外と同居できる。好きと嫌いも同居できる。矛盾だけど、矛盾なんて人の営みのなかで一番楽しいものじゃないだろうか

自分の発言にするかも迷うほどのモヤモヤをいつか一つの文章で書ける日が来たらいいと思う。

 

相互承認を嘲笑ってる人って結局相互承認のない人なんだよな

以下同文。

 

投資の勉強会なる搾取が隣で行われてるのだけど、すごい話術だな。

ツイッターで良くフォローしてくる、投資で勝てる方法をお教えします!みたいなのの中の人なのかな?と。ほんとうに居るんだ、となりました。「負けることもあるけど、勝つ確率の方が高いし、負けて辞めたらもったいない。勝つまで投資しよう」とかなんとか、自分はその後席を離れてしまったけど、やっぱり講師代とか払ってるのかな、あの子らは。

 

情報過多になってくると、視界がスローになって、脳みそフルスピードでまわしてどうでもいいこと考え始めるアレなんなんだろ

表情に気が回らなくて、たいてい真顔虚無顔になってる。

 

たぶん人生で初めてストロングゼロ飲んだけど、アルコールの暴力感がすごい。ついでにアルコール臭もすごい。保健室で怪我の手当てしてもらいながら酒飲んでる気分になる。

それはまた背徳感とかのほうが目立つな、と思ってツイートしなかったやつ。

 

なんとなくだけど、それこそ地元の「椎名」的な人は都市と地方(地元)についてどう思ってるんだろうか。きっと自分じゃ思いもよらない答えが返ってくるんだろうな。羨ましいな妬ましいな愚かしいな。

「ここは退屈迎えに来て」を読んで。

 

自己肯定感低いって言ってる人で、自分はこんなもんだからって言ってる人、それって自己肯定してるんじゃないかな、と思ったり

拗らせ芸。

 

 

以上。

墓標も立ててもらえない、供養してもらえないツイートも沢山あるけど、これはもうどうしようもないのでひっそりと焚き上げます。

映画の感想:『カランコエの花』

2018/09/11(Tue)@アップリンク渋谷

中川駿 監督/脚本

映画『カランコエの花』

 

 

を見てきました。まだ見てない人、見たいと思ってる人は読まないで。お願い。

 

 

 

正直言うと、感想を述べることすら、少し躊躇するLGBTについての映画。

差別、偏見、間違い......なくすためには誰かが傷ついているリアルな現状を見せる必要があるのかもしれない。そして、それは映画の役割の一つなのかもしれない。

感想すらも躊躇したり言葉を選ぶというのも言いかえれば一つの偏見の形なのかもしれない。「腫れ物に触るみたいに」になっているのかもしれない。そう考えるとまた慎重になって......でもそれが偏見で......という無限ループに陥ってしまっている。

丁寧に接する、なんでもないように振る舞うという意識が、そもそも特別視している、という危険性をはらんでいて、言っても仕方ないのかもしれないけど、仕方ないかもしれないって思わせられる今の現状が残念でもどかしい。みんなと同じように振る舞う、という意識でみんなと同じように振る舞えるのだろうか。

 

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急遽LGBTについての授業が行われ、それも自分のクラスでしか行われてないことに気づいて「このクラスにいるんじゃね?LGBT」と興味本位、軽い気持ちで犯人探しのように当事者を割り出そうとする男子高校生。差別や偏見をなくしたい、そんな養護教諭の気持ちなんて考えもせずに、当事者の気持ちなんて微塵も考えずに「そんなキメエやつホントにこのクラスに居んのかよ」と吐き捨てる。

 

自分が中高生のときってどんなだったっけ。「気持ち悪い。オカマ野郎」みたいな言葉が聞こえていたような気もする。高校生なんてそんなもんだと言って終わりにはできないけど、いつだって自分が正しくて、自分が楽しめることに目ざとくて、人生で一番浅はかな季節。自分だってそういう面がなかったとは言えない。というか、自分の経験した中高生の思い出の中では、少なからず居た。こういう考えの人は。だからこそリアルに映ったし、棘のようなものが刺さっていく。

 

嘘をつくとき鼻の頭をこする先生の癖のせいで、噂程度の話が確信にかわり。当事者をあぶり出そうとする生徒と、踏み込むのはよくないという生徒の迫合いが起こり少しこれまでと違うピリついたぎこちない空気がクラスに漂う。

この映画の中での演者のとるLGBTへの態度はすごくリアルだと思う。「気持ち悪い」って声も「どうなの?怖くないの?」っていう声もどこかで聞いたことあるようなものだし、「保健室で聞いちゃったんだ.....今すごく辛そうにしてる。力になってあげたいけど、どうしたらいいのかわからない」と泣きながら明かした沙奈に対しての主人公の月乃の第一声が「誰......なの......?」だったのもリアルで見ていて辛かった。

 

この映画では、登場人物のほとんどがいわゆる「間違い」を犯し続ける。先述した男子のような差別や偏見は良くないとわかってても、誰が当事者なのか知りたくなる月乃の気持ちも分からなくもない。

桜がレズビアンであることを知った月乃、桜と接するときに「何も知らない体で」に努めてぎこちなくなる。母との会話での「怖くないの?」って言葉が足枷みたいに体を重くなる。

桜の恋愛対象が女性で、もしかしたら私なのかもしれない、二人乗りで背中に体を預けて来た桜にどういう気持ちが含まれているのかわからなくて、今まで桜とどう接して来たのかが全て覆されたみたいな「わからない」だけが頭の中で繰り返し回っていたのだろうか。ほんとうはそうじゃないっていうことは頭ではわかっているのに体も口もついてこない。

 

この時、桜は「『自分がレズビアンだということ』を月乃が知っている」と気付いていたのだろうか。沙奈が桜に声をかけたりしたのだろうか。なにも描写はされていないけど、「こんな形で伝えるのはーー」と今にも泣き出しそうな、申し訳なさそうな表情で話を切り出そうとする桜と、それを敏感に察知して作った表情で受け答えようとする月乃、どこか噛み合わないまま、桜も言いかけたことを仕舞ってバスに乗る。

 

終盤、黒板にでかでかと書かれた「小牧桜はレズビアン」の文字、それを見て言葉を失う月乃。その事実を知っているのは自分と沙奈だけのはず、どこから、誰が、考えても考えてもまとまらない様子の月乃。友人である桜を守らないといけない。桜が褒めてくれた、母からもらった赤いシュシュは、母の好きなカランコエの花に似ているらしい。カランコエ花言葉は「あなたを守る」。今朝母が言っていたのを聞いたばかりだった。

 

黒板の文字列に釘付けになり言葉を失い動けないでいる生徒たちの元に、桜が戻ってくる。月乃が声を大きくして言う「違う。桜は違う。桜はレズビアンなんかじゃない」という言葉を聞いて「あああぁぁ........」と言葉が出そうになる。

守りたかった、でもその言い方じゃない。桜は誰よりも月乃に自分のことを理解して欲しかった知って欲しかった。だから傷つけてしまった。

黒板の文字列は桜が自分で書いたものだった。この数日の間、まるで何かの犯人みたいに探されていることで消耗したのか、月乃へ思いを伝えたかったからなのか、月乃にわかってほしかったからなのか。月乃さえ、わかってくれれば良かったのだろうか。だからこそ、月乃の言動で傷ついた桜は教室に戻ってくることはなかったし、月乃が去ってしまったあとで、全部気づいた月乃は後悔と懺悔とで涙を流した。

 

悪意のないことでも誰かを傷つける種になったりする。むしろ、誰かを傷つけることの多くは悪意がないことだったりするのかもしれない。この映画の題材は最初にも書いてある通りLGBT、つい先日話題になっていた新潮社のアレも、本当のところどうかわからないけど「悪意がない」という顔をして書いているものだった。当然、当たり前、普通、一般、通常、基本、普段何気なく会話で使うこれらの枕詞も、誰かにとっては刃物同然。そういう可能性のことに気づくこともできないまま、 考えつかないまま生きることはできる。でもいつか、この映画の月乃みたいに、生徒みたいに、悔やむことになるのかもしれない。この映画は、少し昔の時代だったら何に後悔しているのか、何が間違いだったのかピンと来なかったかもしれない。希望だけど、将来は「なんなんだこの話は!こんなことがあってたまるか」と百人が百人憤慨する映画になっていて欲しい。今だからこそ、そんな昔から将来へ移り変わっていく現代だからこそ、悲しくも鋭利な棘として、観た人の心にそっと残り続けるのだろうと思いました。

 

僕自身、月乃やクラスメイトのように、ちゃんと(という言葉がふさわしいのかもわからないけど)知っているわけではない。漠然と、差別や偏見はよくないこと、そして人種や生まれ、性的指向などで差別や偏見が行われている現状については教えられてきた。

差別や偏見をしないぞ、っていう意気込みがどれほど差別や偏見をなくすことにたいして効果があるかはわからない。頭に書いたように、これも言ってみれば差別や偏見の形なのかもしれない。理解あるよだとか、寛容だよだとかが、人によっては少し変な言葉として受け取られるかもしれないことくらいはわかる。自分はカミングアウトをされたことはないけど、誰とも接して来なかったかどうかはわからない。その誰かを、自分は何気ない会話のなかで差別してこなかっただろうか。

考えるばかりだけど、考えるきっかけをくれたこの映画のことは忘れないでいようと思います。

 

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少し構成的な話にずれると、基本的に時系列で進んでいくこの数日間、最後に月乃が言動を悔やむシーンのあとで、この数日間の発端となった、桜が養護教諭に恋愛相談をする日のことが描かれていて、描かれながらのエンドロールで、少し浮かれた調子で声を弾ませながら、月乃のことを話す桜、この数日後のことを自分たちは知っているから、本当に胸を締め付けられるような、棘が刺さって抜けないような、そんな。

今まで見てきた映画で一番綺麗で一番悲しいエンドロールだったと思う。

 

あと、お調子者の彼、実は桜のことが好きだったようで、彼も彼なりに自分のしてきたことを悔やんだんだろうな、と思いました。面白がる仲間と、急に深刻そうな顔で止めようとする彼の表情が印象的でした。

2018/09/20(thu)

この日、初めて乗っていた電車で人身事故が起きた。

緊急停止になんだなんだと思っていると人身事故のアナウンス。目の前で座っている乗客は怪訝そうに眉をひそめていた。

日付も変わりそうな遅い時間帯での人身事故。

疲れている(であろう)人でごった返してた車内はこもった空気とたくさんの人のため息で濁っていた。

繰り返される「しばらくお待ちください」のアナウンスをその度に耳を傾けては肩を落とす乗客たち。「これって本当に人身事故が起こった車両なんだよね」と疑いたくなるくらいに穏やかに淀んだ空気が満ちている。他人のことなんて、文字通り他人事だけど、人の生き死にが関わっているこの場においても、徹底的に絵に描いたような他人事を貫いているひとたちに抱いても仕方ない不信感を抱きながら、車両の外でせわしなく行き来する警察や消防の様子を見ていた。担架に乗せられ、ビニールシートをかけられた何か大きなものが運ばれていった時こそ、ピンと張り詰めたような気はしたものの、それが数十分前には自分たちと同じように生きていた誰かかもしれないことだと実感しているような実感していないような、今まで感じたことのない"変な"心地のする空間だった。

(きっと、こんなふうに自分は違う、と主張したいみたいなことを偉そうにつらつら言っているけど、他人事だからこんな風に文章が書けるんだろうなと思う。他人事だから、同情できるし、他人事だから、他人事に感じている他人を気にかけれるのだろうか。なんか嫌だな)

 

電車は1時間ほど停止したあとで、警察・消防への申請が通って動き始めた。その人が、どういう意図で飛び込んだのかわからないけど(そもそも自分の意思で飛び込んだのかもわからないけど)、たかだか1時間ぽっちで、再開できてしまうんだな、と思った。

たった1時間、想定外の雨に降られて足止めをくらった、みたいな、ああクソついてないな、みたいな、誰も口から漏らしてはないけど、なんとなくそういう雰囲気を感じた。「人身事故」も今のご時世決して珍しい話ではない。日夜どこかしらで起こってるし、今までもそれが原因の遅延に巻き込まれたことはある。その時の自分もたぶん「ヤバい、間に合うかな」くらいにしか思ってなかったと思う。そんなことも思い出しながら、つり革に腕を通して、若干の体重を預けて、電車の再開を待っていた。

 

このことを知人に話すと「だけど、それで君が気に病んでもどうしようもないよ」みたいなことを言われた。その通りなんだよな、と思いながら、何がショックだったのか思い返してみた。知らない誰かが命を落としたことなのか、人の死に直面した人々の関心の薄さなのか、たった1時間で運転が再開したことなのか、今でもちゃんと言えない。

 

ふと、昔は公開処刑なんてしていて、見世物になってて、どういう心境はわからないけど、見に行っていた人も居たんだよな、とかツイッターで見た程度だけど、ビルの屋上に立っている人に対して、「早く飛び降りろ!」「早く楽になれ!」とか声をかけていたりとか(その後、お酒に酔って風に当たっていただけ、ということらしいとわかった)、自分の認識している以上に人は知らない人の生死に関して無頓着なのかもしれない。

 

 

それぞれ人の考え方は自由だけど、やっぱりその人の最期の選択を「間違いだった」とか言いたくないって思いが強い。何が正解で何が間違いかもわからないし、そもそも人間は生きていてどうにかなっている人しか今生きてないのだから、死ぬことでどうにかなる人のことはこれから先もずっと知れることはないんだ。だからこそ生きていれば、っていう希望を言いたくなるのかもしれないな。

 

実は下書きにずっと書き加えては下書き保存して書き加えては下書き保存している自殺についての文章がある。

書ききれるのかわからないけど、いつか書き上げれたら。

 

 

最後にもう一度、自殺を肯定しているわけでも推奨している訳でもないです。叶うならば納得できるならば生きていて欲しいです。

ただ、盲目的かもしれないけど、息絶える最期の瞬間まで純粋に「死にたい」と願いながら生きた人に対して、テンプレートみたいな「生きていればどうとでもなるのに」という文句への違和感と、僕の感じた人身事故車両内の空気感を受けて思ったことを書きたかっただけです。

映画の感想:少女邂逅

2018/08/23木曜日

少女邂逅』という映画を観てきました。

MOOSIC LAB 2017の作品。

枝優花監督と、「転校生」名義でも活動していた音楽アーティスト水本夏絵のコラボ映画。

 

名前をよく見かけていて気になっていた監督と、高校生の頃に繰り返し繰り返し聞いていた水本夏絵さんのタッグということもあって、とても見たかったし、去年の上映が東京だけだったのを酷く嘆いた記憶もある。8/18から1週間、京都の出町座で限定公開されると知ってやっとの思いで見に行けた。

感想を一言で表すと、心臓をガーゼで優しく包んで握りしめられている感覚のする映画だった。

 

ミユリと高校生の頃の自分が重なって見てられなかったし、紬の言葉が酷く刺さった。

共感、という言葉を安く使うのが嫌いで、自分と他の誰かや創作の中の人物、全然違うのになんで一緒だと思うんだろう、とか、どれくらい目を瞑れば一緒だなんて思えるんだろう、とか、そんなことを思っていました。今でも思っている。

登場人物の気持ちとかを想像するのは楽しいし、例えば主人公目線を自分に置き換えて映画を見ることも多々ある。

けど、こんな風に実在した昔の自分と登場人物を重ねてしかも感傷に浸るなんて初めてのことで自分でもどういうことなのかわからなかった。

安易に共感したとか言いたくないけど、たぶん共感したんだと思う。

苦悩も願望も空気の読めなさも逃げの決意もまるで高校生の自分を見ているかのような不思議な感覚の中、主人公として描かれるミユリの感情を想像しながら、苦味とある種の懐かしみを味わいながら終わりまで心臓を握り締められていた。

 

女の子2人に主題が置かれた映画ということで、ミユリと紬の関係性の移り変わりがこの映画の肝として描かれている。

「君だけでよかった 君だけがよかった」

という映画のキャッチフレーズが効いていて、この映画を見ているうちは、ミユリから紬に向けての言葉として受け取っているこのキャッチフレーズが、終わりに向けて物語が進んでいくうちに、むしろ紬からミユリに向けての言葉じゃないかという考えが浮かんでくる。「よかった」という過去形なのが哀しい。共依存とも言えるふたりの関係性が気持ちは同じなのに決定的にすれ違っていくのがもどかしい。

多分ミユリはどこかで依存している自分から脱することを必要と感じていて、東京の大学への進学を望む。でも進学が叶ってもそれがついに最後まで叶わなかった現実に気づく。それどころか「私には依存してない紬」と「何故か私に執着している紬」の両方が混ざり合った感覚を抱いていて、ついに最後、「紬こそ、私に依存していたんだ」と気づくことになる。「紬が自分にだけ見せてくれる紬という人間」と本当の紬本人のギャップを突きつけられたミユリ、それまで感じてなかった「自分こそが『蚕』なんだ」と気づかされるラストシーンは必見。紬が蚕に寄せていた重ねていた思いの根本に気づいたミユリは、東京へ向かう電車の中で何を思っていたのだろう。あの時の気持ちは想像しても言葉にできない。

 

そしてこの映画は2回見たのですが、1度目見て気づかなかったことに2度目で気づくみたいな(まあよくあるやつ)ことを経験しました。

1度目見ただけでも面白かったけど、2回目では"馨"の存在の可能性に気づかされる。

この映画で、クラスの女子を引き連れてミユリをいじめていた馨、紬が援助交際でお金を稼いでいることをミユリに明かす馨、街を出る寸前のミユリに紬が死んだことを伝える馨。終始ミユリが忌み嫌うそぶりを見せるものの、何か引っかかりのあった馨の存在が、2度目ではまた違った見え方をした。

母とミユリの食事シーンでの母のセリフの"カオルちゃん"も近くの大学に進学するから、ミユリもそうしたら?と何気ない提案の中のカオルちゃんこそ馨なのだし、紬の援交を伝えるシーンでもアルバムを見返して、たこ焼きを家族で作って食べた時のエピソードを蒸し返したり、極め付けは、本屋で沖縄のガイドブックを見ているミユリと紬の二人を店の外から見ている視点のあのワンカット、ミユリが視点に気づいて店外へ目をやるとその視点もはけるようにフレーミングする。明かされてはないけど、あれは馨視点なのだろうな。この映画の中でミユリ視点、紬視点以外には、馨視点のこのワンカット以外には人物視点の映像はない。思い返せば思い返すほど、馨という人物のこの物語での主張みたいなものが大きくなっていく。

紬を尾行して援助交際を突きとめた馨、何が目的でそこまでするんだろう、と2回目で引っかかりが大きくなってモヤモヤした。最終的には、馨に関しての映画内での描写はそれ以外にはあまりにも少なく、想像で補うほかないのだけど、馨も、ミユリに対して何らかの執着、何らかの依存心を持っていたんじゃないかなと。

序盤にミユリの拠り所だった蚕を「お前いつまでこんな狭いところにいるんだよ、私がもっと広い世界を見せてやるよ」と小さく呟いて森に投げ捨てるあのシーンが鍵なんだろうなとは思う。

この映画『少女邂逅』において、「邂逅(カイコウ)」と随所に出てくる「蚕(カイコ)」はかけられているのは、まああからさまなくらいなんだけど、つまりは「少女=蚕」という構図も示されてると考えられるわけで、馨はグズグズしてるミユリに対してイライラしていて、いつまでそんなところにいるんだよ、お前はそんなところにいるやつじゃねえだろ、と伝えたかったのか....??とか思ったり。(じゃあそもそもいじめてんじゃねえよ、とも思うが)

「現実見ろよ」ってセリフもなんか高校生活そのものが虚像なんだと言っているような気がしなくもない。というか、そういう風に考えないと、わざわざ紬を嗅ぎ回って援助交際証拠写真を撮ってミユリに突きつける意図がわからないし、ミユリが髪型を変えてクラスの子らに受け入れられ始めてからいじめの描写がなくなったのも「ミユリが外に向けて歩み始めたから」なのだろうか。なんにしろ描写が少なくて本当に想像に頼ることしかできないけど、馨が重要な役どころなのは間違いないと思う。

馨については、これまでの出来事とか事細かに年表を作って人物像を設定してあるとのことだし、映画としてカメラにおさまってない馨視点での心の機微が本当に気になる。

自分の感覚だと、紬は自分が"蚕"だと確信していてそれに抗った人物として、ミユリは自分が"蚕"だと最後に気づく人物として、馨は自分が"蚕"だと気付いてそれを受け入れた甘んじた人物としてそれぞれ対比できるように書かれてたのかな、と。

「どこらへんが女の子2人の映画なんだ。3人の映画じゃないか」とすら思う。

 

まだ映画館で観れる機会があるようなので、3度目も考えている。追記するのか、紐付けるのかまだわかんないけど、楽しみだ。

 

 

追記

この作品のアナザーストーリーとして、YouTubeにて『放課後ソーダ日和』(全9話)が公開されている。これの感想も併せて書き残しておきたい。