2017/09/05(Tue)

3時過ぎに帰ってきたのもあり、父が10時前に迎えにきてくれたのにも気づかず二度寝したところで今日が始まった。

帰省したときには必ず行くお好み焼き屋さんでお腹いっぱい食べた後、祖母に会いに。

いつの間にかまた一回り小さくなったような祖母を見て、この間見た映画「ゆれる」のワンシーンを思い出した。

僕のこの手と目と足は、まだ見ぬ誰かに何かを訴えかけるためにある物だと思っていたけど、それ以前に近い場所を今一度見つめ直さなければいけないことにか気がついた。

 僕に限ったことじゃないけど、人はそれぞれ何かしらできることを持っている。それを生かして仕事をしている人も少なくない。

僕はたまたまカメラを構えてシャッターボタンを押せる手を持っている。僕はたまたまファインダーを覗いて写真のバランスを見定める目を持っている。被写体との距離をかせぐ足を持っている。

スキルは置いといて、僕は好き好んでそれができる。

 

少し話は変わるけど、いわゆる映像は元来、写真の連続によって成っている。秒間30コマくらいで、人はその一瞬一瞬の静止画をの連続を一連の動作として見ることができるという。

微分積分の関係と似てるなとある日思って、そう考えると、写真は映像を時間の連続という概念で微分した一次元下位の存在だと言い換えることもできるな、と。

でも、もし、技術が今と比べ物にならないくらい発展して、ありとあらゆる媒体で映像が再生可能な社会になったとしても、写真の表現が廃れる事はないだろうと漠然とそう思う。

例えば、雑誌がまだ紙媒体のような形で、その紙面場でも映像を用いることができたとしても、やはり僕達は写真を使うのではないかな。

そこには、写真にはあって映像にはない良さが存在して、その作用の働くところなのだろう。

 

 きっとそこを突き詰めることができれば、僕は学生の身分を終えることができるのだなと。