2017/09/10(Sun)

地元愛について。

 

「故郷」言うといろいろな「故郷」がある。

僕にも「生まれの故郷」「育ちの故郷」「学びの故郷」「心の故郷」があって、0〜6歳までを「生まれの故郷」、6〜18歳までを「育ちの故郷」、18〜現在までを「学びの故郷」で過ごしてきた。

「心の故郷」は僕の出生成長には何も縁はないのだけど、とても好きな土地で、ことあるごとに一人で赴いてはいろいろなことを考えて、それがなんかしっくりときてるもんで勝手にそうやって決めてしまった。

あの土地は何故か僕の心情と似ている(と勝手に思っている)。

 

「故郷」と似た意味で「地元」がある。

地方出身者だけだろうか。僕だけだろうか。「故郷」は温かい響きの反面、システムで割り振られたような印象を受ける。「地元」のほうがなぜかぶっきらぼうのだけど愛着を感じる。

例えば僕にとって先に書いたように「故郷」はいくつかあるけれど、「地元」は唯一無二で6〜18歳までを過ごした「育ちの故郷」だけだろう。

長い年数を過ごしたからなのか、一番多感な時期を過ごしたからなのか、小中高過ごしたならなのか、なぜかはわからないけど、同じように考えている人も少なくはないと思う。

 

前置きが随分と長くなってしまったが、僕は高校を卒業後、「地元」を離れて「学びの故郷」京都にある大学に進学した。

小中高生のときの可動域はもっぱら家と学校を両端にしたラグビーボールくらいの範囲で手段は自転車が主だった。

大学に入り、免許を取り、成人した。お酒とタバコを摂るようなると、帰省した時の地元の見え方が変わった。

通学路に何十年もやっている喫茶店があることを初めて知った。駅前に居酒屋がたくさんあることを初めて知った。遠くにあると思っていた場所が案外すぐ行ける距離にあった。昼しか知らなかった場所の夜を知った。

挙げだすとキリがないが、知らない地元を知る機会が増えた。

 

少し話が脱線してしまうけど、高校の同級生で僕と似たような専攻に進んだ人は、おそらく1%くらいだと認識している。

人数にして僕含め3人。今日はそのうちの1人と会って来た。

厳密に言うと同じことを学んでいるわけではないけど、同じような思考のプロセスを学んだ数少ない友人だ。

彼もまた人間の個々の視点、知覚、心情の機微への興味が自身を動かし模索しているようだった。

答えの見えない押し問答、知ったからどうなるともない持論・感情生成のプロセスとか、どうにもならない話で殴り合うのがとても面白い夜だった。

彼に道案内をしてもらって山手のダムへと行ってきた。これからの僕らには欠かせない事柄を話してきた。時間の無限さと有限さを感じた日でした。