共感と感情形成の原点と過程の話

もうかれこれ6,7年くらい好きな漫画家が居て、志村貴子先生なんですが、高校生の多感な時期に『放浪息子』と『青い花』に出会った。今振り返れば当時読んで惹かれたから今こういう考え方をしているのかもしれないけれど、志村先生の描くキャラクターの感情の生まれ方が僕の理想としているところにふと気がついた。

 

何度も下書きに書いてはまとまらず消していたテーマとして、『「してあげる」の思考が嫌い』というのがある。

文字通り、「してあげる」の感覚が理解できなくて、自分の「したい」欲求を、「誰かのため」なんていう大義名分を付け加えて、そして「誰かのため」になると信じてやまなようなそのすり替えの思考が苦手なのです。大抵ひねくれ者だと切って捨てられますが、そういう考え方なのです。僕は。

自分と相手がいるその場において、生まれる感情はお互いの主観そのものでしかないのに、ある行動の結果から、相手が生み出す感情を一つに決めつけてしまうのはあまり危ういと思う。もちろん推測はできるとは思う。でもそれはやっぱり推測の域を脱すことはなくて。

でも何より僕が気持ち悪いと思うのは、そんなことよりも、自分の「したい」の感情を、相手のことを思って、それが本意であるかのように振る舞うその精神の方です。

例えば良く言う「困っている人を見かけたら助けてあげましょう」というフレーズだけど、僕が思うのはこの場合、困っている人を見るということがそもそも嫌だというのが原点にあって、その困っている姿を見たくない、というようなマインドに働くと思うんですよ。誰しもとは言わないけれど、少なくとも僕は困っている人なんて見たくないんです。別に綺麗事を言っているのではなくて、真逆のことだと思うんですけど。

人間ってどのタイミングでなのかわからないですけど、共感性やら自己投影やら察する能力やらを身につけてきたわけじゃないですか。それをそのまま当てはめると、困っている人を見るっていうことは自分にとっても困ったこなんですよ。そしてその困ったを解決するためには眼前の人の抱える問題が解決する必要があって、そのために行動を起こす。

この構造が僕の思う人の感情の生まれ方の原点と行動を起こすまでの過程の基本だと思っていて、いわば、全ての感情が元を辿れば自らの欲求を自覚したとか、欲求が満たされたとか、満たされなかったとか、そういう自分本位のところを出発していると思っています。

その原点と過程をすっとばすということは、公式は知っているけど、その公式の由来は知らないみたいな、いや、現代なんてそんなことばかりなのだけど、僕は少なくとも自分の考えとか行動とか感情とか、自分の主観によるところはせめて責任を持ちたいと考えているし、それを良しとしている。

欲求はときたま良くないことと教えられる。自分本意の考え方ばかりをらしていてはダメだと。確かに言わんとすることはわからんでもないし、そもそも、自分の考え方だと「利他的」という言葉がもうフィクションの言葉になってしまうわけで、つまり、自分の考え方が、言葉の成り立ちや考え方からズレているわけです。不本意だけど。

でも少なくとも考える暇がないくらいの咄嗟の出来事を除いて全ての行動の原点は「相手が喜んでくれるから」とか相手本意ではなくて「相手の喜ぶ姿(の方)がみたいから」っていう自分本位のものだと思ってますし、その二つの差は大きいと考えています。

「優しい」とかはあくまで相手側から評価されて初めて生まれる言葉で「人に優しく接する」とかは自分がどう頑張ってもできる保証はどこにもないわけで。

のちの行動に大差なかったとしても、僕は自分の欲求を自覚した上で動く人が好きです。まあそれもどこでそれを判断しているのかとか考え始めるとそれこそ100%はあり得ないわけなんですけどね。

ただでさえ本心なんて分かりづらい構造をしていて、自分の本心さえも分かりづらいのに、その自分の本心をわかろうとも努めない、考えることを放棄するような人はちょっとやっぱり苦手なんですよ。

まあほんとに相手本意で物を考えるニュー人類がいるかもしれないし、そのニュー人類が実は多くを占めている可能性だってあるわけなんですけども。少なくとも自分はそういうふうに考えているっていうことで。

 

もちろん他人にこの考え方を強要するつもりはないし、賛同できないからといって避難するわけでも有りません。好きだの嫌いだの好き勝手言っておいてなんですが。半分は自分の考えを自分なりにまとめたかったというのと(散々散らかしておりますが)もう半分は自分はこういう考え方で生きていくという今現在の自分の決意表明です。

もっといろいろなことを知って成熟していくうちに振り返って「昔は青かったな」とか「ひねくれて育ってたな」とか「こじらせてるな....」とかなる可能性もありますけど、今現在はそう考えたい。僕は。僕が。

 

一つ主張したいことを挙げるなら「自分本位ってそんなに悪いことなのか。自分本位では誰かのためになることはないのか」ということです。自分本位の行動でも誰かのためになったならないはその「誰か」が判断することです。騙すとか、陥れるとかでなければ、そこには他の誰の思惑も反映されないはずなんです。

 

ひたすら同じことを書き連ねている気がするのでこの辺で終えて、本題(?)に入ろうと思います。

 

志村先生の作品に出てくるキャラクターって良くも悪くも自分の欲求に正直というか、自分本位で考える心情描写をされていることに気がついて、どこを切り取っても、「誰々のために◯◯をする」という描写がないんですよね。僕の体感でですが。

誰かを好きになるのも身を引くのも拒絶するのもなにするにも、それぞれの欲求の部分から丁寧に描かれていて少なくともこんなに自分の感情にピタッとおさまって揺さぶられる作品にまだ出会っていない。

 

志村先生がそういうことを考えているかとか、反映させているかとかはわからないけれど、僕はそんなわけで、志村先生の作品が好きなんだとさっき気づいたという話。

 

稚拙な文章でごめんなさい。ひとりごとなので許してください。