2018/05/13(Sun)

映画『赤色彗星倶楽部』@テアトル新宿

観てきました。好きだった。えええ。

見て。誰かと喋りたい....

2018/05/07(mon)

ギア East Versionを観劇してきたヨ

 

ギアといえば京都。

5年も住んでいればあの看板を見ないわけないし、三条通りのあのビルの前を通らないなんてことはないわけで、

「いつか行こう  いつか見に行けたら」と思っているうちに、いつの間にやら僕の方が引っ越してしまった。

「ギア」については「あのビルにある専用の劇場でやってる演劇」くらいの認識のまま京都を離れ、

その年に関東でEast versionとしてでんぱ組.inc藤咲彩音がドール役で出演するとの情報を聞き、これは行くしかなかろう、と。

 

映画にしろ演劇にしろ、本当に楽しみな公演は自分がまっさらな状態で臨みたい気質があるらしく、今回も何やらドール役1人とパフォーマーが4人と言葉を使わない"ノンバーバルパフォーマンス"だということくらいの前情報で鑑賞してきました。

あと楽しいし感動するよ!ってくらい。

(なんで京都に5年住んでこれしか知らないのか)

 

極力、感想とかも読まないようにして、いざ観劇。

ネタバレなしで一言で感想を言うと、誇張なしに笑いあり涙ありでした。

ほんとうに「うおお」だの「あああ」だのが口からこぼれてしまうくらいには楽しかった。

京都に戻った際には、是非ギア(無印)も見てみたいと思うのです....

 

そして、個人的に感想を起こしておきたいので

 

⚠️以外ネタバレ含む感想⚠️

 

個人的に重大だと思うこともネタバレで書いちゃうかもしれないから、見る可能性が少しでもある人は絶対に公演を観る前に読まないでネ。

 

 

 

 

 

 

 

まず最初に言いたい!

彩音さんが可愛かった!!!!!!

 

 

よし。

 

 

さて、4人のパフォーマーと上では書いたけど、「ドール」に合わせるなら「ロボロイド」と書かねばですね。

 

人が去ってしまった元おもちゃ工場での「ロボロイド」達と「ドール」のお話。

 

このロボロイド達がなかなかにくせもの揃いで、ヘマやらかしたり、その責任押し付けあったり、人間臭さが行動に滲み出ていて、憎めない愛おしいキャラクターでした。

ドールと出会ったのも、ロボロイドのどんちゃん騒ぎがきっかけ。

どんちゃん騒ぎで天井が落ちてきて、その拍子にパッケージごと一体の人形が落ちてくる。これがドールとロボロイドとの出会い。

 

人形がドール役の演者と切り替わるシーンは予期してなかったので素で驚いた。

 

不思議な力で1人でに動けるようになったドール。

まるでちびっ子のごとく好奇心旺盛で、いろんなことに興味を持ってお騒がせ案件を乱立させていく中で少しずつ体を動かすのにも慣れていく。

 

そしてロボロイドとドールが握手した拍子に、ドールから不思議な力が流れ込んで、一定時間人間のように滑らかな動きができるようになり→パフォーマンスという流れ。

ちなみにパフォーマンスの中身は

赤…パントマイム

黄…ブレイクダンス

緑…ジャグリング

青…マジック

でした。

これまたパフォーマンスが凄くて、個々のパフォーマンスだけでも凄く楽しめるのに、それがまたストーリーに繋がっていくからすごい。なんだろう。ミュージカルとかに近いのかな?それぞれのシーンでパフォーマンスにストーリーを持たせて展開していく。

 

「握手すると楽しいことが起こる」と学習したドール。それをからかうように握手を寸前で避けていくロボロイド、だんだんと楽しくなっていくもんだからどんどんどんどん事が大きくなってどんちゃん騒ぎバージョン2。

あれよあれよと工場の暴走騒ぎにまで発展して暗転。(ここがとても楽しかったのだ。是非また見たい)

 

ドールが目を覚ますと(この起き上がるシーンではもはや仕草が人間と同じように振る舞えるようになっている)工場は電気が落ちていて、ロボロイド達も最後のイタズラ心で手を出したまま止まって動かない。

ロボロイドが動力を失ってもう動かないと悟って、涙が流れたのに気づいて初めてドールは「悲しい」という感情を自覚する。言葉にならない声で、捻り出すように悲痛に叫ぶドール。 

 

個人的にはここのシーンが一番だった。

「ノンバーバルパフォーマンス、言葉を使わないから年齢国籍関係なく誰でも楽しめるよ」

って言ってたせいで、(いい意味で)騙されてしまった。

いつからか声を発しない演目だと思い込んでしまっていた。

言葉を使わないだけで、声は使っていいもんね。

それまでBGMや効果音で場の起伏なんかは表現されていたんだけど、それぞれの感情とかはやっぱり表情や動き、目で見て感じ取っていたわけで、このシーンも当たり前のように「悲しみ」を仕草、表情で読み取って、耳がお留守になっていたところで、ドールが泣き叫ぶ声がまっすぐ耳に刺さってきて、こんなのお手上げです。鳥肌です。

油断していたところで刺激を突きつけられると瞬間最大風速がすごい。ホラーなんかで良く使われる手法に似てるかな。

なんかそれっぽいことつらつら書いちゃったけど、ただただ単純にこの泣きの演技が刺さる。

ロボロイド達ともう遊べないこと、それが自分のせいかもしらないこと、いろんなことが怖くて悲しくて、その純粋な悲しみが真っ直ぐにこっちに届いてきたとき、気づいたら涙が止まらなかったし、思い出して今も泣きながらタイプしている。

 

そしてその後また暗転すると、ドールは元の動かない人形に戻っていて、動力が戻ったロボロイド達が何かを思い出したかのように、人形に向かって手を差し出し、終幕。

この行き違いももどかしくて切なかった。

 

このラストシーンのそれぞれの暗転も「どれくらい時間が経ったのだろう」とか考えてしまった。

ドールが目を覚ましたのが夜で、電源供給が復旧したのが次の日の朝かもしれないし、もっと時間が経っているのかもしれない。数十日あるいは数ヶ月、数年.......

そもそも人が去ってからどれくらいの期間、ロボロイド達が働き続けていたのかも分からない。

これはもう作品の中身とはあまり関係ないけど、そんなことを考えているとドールもロボロイド達もより愛おしくなった。

 

 

90分っていう決して長くない時間の中でパフォーマンスも盛り込んで、ってなると、全体を通してストーリーが特別難解で複雑で奇想天外ってわけではない。小さい子でもわかるようなごくごく簡単な絵本のようなファンタジーなストーリー。

なんだけど、本当に演出演技が素敵だった。

 

繰り返すようだけど、好奇心だけで動いていたドールが、ロボロイドと過ごすにつれて、遊びの中で「楽しい」とか「すごい」とか「ないわー」とか色々な感情を表現できるようになっていく過程が凄く微笑ましくて、一緒に遊んでるシーンなんかはこっちまで楽しくなってくる。

その楽しさが伝わってきたからこそ、突然突きつけられた終わりの「悲しさ」が切ない。

そして観てる側をそこに一緒に乗せてくれる。

 

「子供でも大人でも楽しめる」って謳い文句良くあるけど、大抵「子供を連れてきた親に当たる大人でも楽しめる」か「子供が楽しめる要素・シーン + 大人が楽しめる要素・シーンで構成されてる」って例が多いような気がして。受け取り方の差はあれど、ここまで「子供世代から大人世代まで幅広く楽しめる」を地で行ってる演目もなかなかないんじゃないかと思う。そらロングランも決まるわ....。

すごく楽しかった...。絶対にまた見るんだ....。

 

 

君の名前で僕を呼んで」を見てきたので、いつかそのこともかけたらいいな。

2018/03/23(Fri)

今日は谷川俊太郎展へ。

 

僕は全くと言って良いほど学もなければ文化的教養もない人間なんだけど、大学卒業前後にしてやっと名著と言われる小説をぼちぼちと読み始めてみたり、名作と言われる映画を観たりしている。

小学生の頃にハリーポッターが流行った時も、僕は我関せずとポケモンをしていたし、中学生の頃に山田悠介が流行った時も見よう見まねでバンドを組んで夢中だった。高校で星新一が流行った時には引きこもっていた。活字を読む機会、なんなら文章を「読む」機会は学校の中で完結していたと言っても良い。

僕が知っていた言葉は幼い頃に読んだ絵本や児童書の言葉がちらほら、好きな音楽・楽曲の歌詞、あとは好きな漫画の言葉だけ。ありがたいことにずっと興味のある事柄をのびのびと楽しめる環境に居るけど、いかんせん視野が狭すぎたんだなと思う。今もとてもじゃないけど広いとは言えないが。

 

大学に進学して数年の間に、いろんな人と話すきっかけがあって、周りには話の中で言葉を上手に使う人がたくさんいたわけですよ。知識量で殴り合ったりマウント取りたがる人は嫌いだけど、個人で物事を楽しむためのスパイスに使う人は素敵だなと思った。このブログ、というか日記もその憧れを拗らせて始めたみたいなところもある。

 

話が飛ぶうえにすごく飛躍するけど、最近世の中のありとあらゆるものがエンターテインメントなんじゃないかなと思っていて、現代は「どうエンターテインメントを最大限に楽しむか」が重要なんじゃないかと。変な話「人って、人生ってエンターテインメントでは...??」と思うまである。

芸術史系の講義受けてる途中にふと「ひと昔でさえ人生に楽しみを求め続けた人たちの生きた記録が残っていて、しかも、云十年云百年前に比べたら『生きる』ことはある程度保証されてると言っても良い。じゃあもはや何を学んだとかいくら稼いだとかそれも全部『死ぬまでにたくさん楽しめたか楽しめなかったか』に集約されるんじゃないか」と思い始めたのがきっかけ。学業さえも仕事さえも日常さえも、こっち側がエンターテインメントだと認識すればええやんけ、と。暴論かもしれないけど。

 

そうして、楽しいを求めて数珠繋ぎ的に色々な物事をインプットしています。音楽から小説へ、漫画から映画へ、映画から音楽へ、音楽から舞台へ。幸せなことに知識欲が「それなりに」あるようで、知らないことを知れると嬉しい。頭に置いていた知識と新しく面した物事が繋がると嬉しい。ふと思い返してアレとコレとが繋がったりすると面白い。

作詞提供した歌が好きで気になっていた詩人の詩集や小説、好きな漫画の中で演劇部が公演した演目の原作、好きなバンドが曲に散りばめた文学作品のエッセンス。今は横つながりのイメージでエンタメの背後にいるエンタメを追っているけど、今度はそれが生まれた社会的・時代的な背景も知識として知っていきたいなと思う。たぶん、それも楽しいはず。

 

それだけで既に成り立ってるエンタメを掘り下げたらもっと楽しくなって最高かよってなる日々。死ぬまでこうして過ごして生きたい。「昔は良かった」なんてことを絶対に言わないようにその時その時の好きなことを楽しんでほしい。将来の自分。せめて「昔『も』」にしてほしい。

 

変な青臭い話にそれてしまった。話をグググっと戻して、谷川俊太郎展について。

僕の大学の卒業製作の中でも触れた「言葉と映像の親和性」が顕著に現れていた展示だったと感じた。「言葉は人々の共通認識のイメージを引き出す記号の役割している」ってソシュール大先生が仰ってたように、言葉には映像がついてまわる。そしてこれは僕のイメージなんですけど言葉が上手な人は映像がクリアで滑らかな傾向があるなと。4Kで秒間60コマみたいな。粗めのGIFと比べると精細さはあるよね。(もちろん粗めのGIF的故にクセになる言葉遣いの人も居る)そして僕のこれからの研究内容でもあるんだけど、映像は空間性を持っていて、画面で平面だろうかなんだろうが人は映像に空間を覚える。その空間の奥行きと拡張とに興味がある。

今回の谷川俊太郎展は言語表現と映像と空間が本当に噛み合って、それでいてズレていて、リズムができていて、「ああ、ずるい。これだ。求めていたこと、したいことの一例がここにある」ってなった展示だった。

 

一つ目の展示なんて最高で、老若男女さまざまな音声で一音一音ぶった切られて、口元だけの白黒映像や平仮名一文字だけが、見る側を囲うように並べられたモニターの上を走っていく。

「没入感」では言い表せない。小気味いい一体感のなか、思考が奪われていくような感覚。言語表現のはずの詩の表現が、言語の中と外を行ったり来たりして詩・言葉なのか音楽なのか曖昧なままバスの洗車機に突っ込まれたみたいなシンプルなのに情報過多。それが楽しい。あああ好きだったなあ。

言葉は映像と言ったけど、それを脱却する試みだったのだろうか。

 

2つ目は馬鹿でかい直方体が複数立っていて、その一面に詩が一文ずつ載ってて、隣接してる2面にはその一文から連想される谷川氏に、谷川氏の詩の制作にまつわる物が並べられている。

1つ目が感覚に訴える展示だとするなら、2つ目は論理的に分解して見せた解剖図のようなものとでも言えるのかな、谷川氏の詩と言う出発点から別々の方向に展開して成ったんだろうな、と。それでもあくまで詩的に見せているんだからすごい。

そして、また見せ方が面白いなあああと。1つ目の展示を抜けて2つ目の展示の部屋に入ると、その詩の一文の面がこっちを向いていて、その一文を「横から見ると」解剖図のように展開されている。文字通り「横から見ると」でふふふってなる。1つ目もそうだけど、言語表現を空間に拡張していくときに、徹底的に丁寧に楽しんでやろうみたいな気概が見えて、そんなの楽しくないわけないじゃん......と。

 

3つ目は大きな何もない白い部屋の壁面に大きな文字で詩が書かれていて、例えるなら小人になって国語の教科書を読むとしたら、だろうか。

言葉は映像を伴うってのが一番体感できる展示だった。大きな白い部屋には何もなくて、詩の文字だけが見える。そうすると、白いだけの部屋に詩の情景が映って(写って、移って)色が出てくる。大げさに言えば、誰とも完全な共有はできないけど、人間ってプロジェクターにもなれるのか......って思ったりもした。小人になってって書いたけど、正確には目を閉じて、まぶたの裏に詩が書かれてある、の方が近いかもしれない。それを視覚的に、空間的にやってしまったんだなという感じ。

 

最初に書いたように学も教養もないので、これらの詩がどう優れているか、どう評価されているのか正確に読み取る頭はないけど、言語表現を視覚的にそして脳内においての"視覚的"に切り込んだ展示で僕は大満足でした。以上!

 

日記なはずなのにまとめるのに3週間以上かかってやんの

2018/03/31→0401

わけのわからない夜の越し方をした。とてもネット上に上げることのできない出来事だった....下書きに残そう。てか、日記帳を買うか....

2018/03/21(Sun)

春分の日だというのに朝から寒い。

先日まで厚着していたら汗ばむくらいの陽気だったのに、お昼に向かうにつれて気温が下がるとか...

近所にあった居心地の良さそうな喫茶店がストーブで暖をとってたのを思い出して、あそこで本でも読もうかなと思うも祝日休業で頓挫。

しかたなく雪寄りのみぞれの中(?)wi-fiをもとめて南口から北口へ移動。チェーン店へ。
雨だしお昼時だし駅前だし混んでるかなと思ったけど、喫煙席は自分だけ。ここは裏切られないのね。今日の自分。と思ってたら2人組みが入ってきたわ。

コンセントがないから充電切れたら本に逃げるけど、それまではメール書いたりYouTubeの後で見るを消化したり調べものしたり読みたかったコラム読んだりして過ごす予定。

家にネット環境がないだけでここまで不自由かねってくらい今下宿先での生活が苦痛。フリーwi-fiがわりと整ってる社会でよかった。調子乗って引っ越し前後にスマホで動画漁るんじゃなかった......

 

 

今日で暗夜行路いい加減読み終えたいね。
読み始めてどれくらい経つんだよっていう

2018/01/28(sun)

12時には神戸に着いてるはずだった。家を出たのは14時だった。

散策して写真撮って喫茶店でタバコ吸いながら本読んだり考え事したりするつもりだったのになあ。

たぶん12時ってやっと荷造りし始めた時間じゃなかっただろうか。

この日は19時から神戸のはずれである女性SSWのライブを、その足で夜行バス乗って東京へ行く予定。終演後からバスまではちょっと飲んでつまめてさっと出れるお店があれば、というくらい。

結局神戸散策を諦めてズルズルズルズルのんびりしてたので、気づけば開演に間に合ったとは言え良さそうな席は埋まってしまっているので、最後尾の壁沿いの席へ。結果これが良かった。遠いのはまあもう仕方ない。ただこの椅子だけ一列前までの他の椅子と比べて座面が高くてステージがとても見やすかった。

あと、後ろに人がいない分余計な気を回さなくていいよね。体どれだけ揺らそうが邪魔にならないし。

 

今日はバンドセットでの演奏もある演目。

はじめ彼女は一人で登場。弾き語りで曲を披露し、鍵盤のメンバーを読んできて、ツーピースで2曲ほど、鍵盤とギターを入れ替えてまたツーピース。また弾き語りに戻ったのち、バンドメンバー全員登場。

この方達がまたすごかった。彼女の楽曲、ギターの演奏、歌唱を底上げするみたいな、土台がしっかりしててとても安定してた。それでいて、一体感があって、SSWとサポートバンド、という形じゃなくて、一つのバンドみたいだった。曲調は全然違うけどパンクバンドみたいで惹きこまれた。

高2くらいの時から聞き始めて丸6年くらい聞いているみたいで、感慨深い。

他にも当時から好きなアーティスト、バンド、SSW、歌手、アイドルいるけどなかなかずーっと聞いてる人たちって居ないんよね。

いっとき聞いてない時期があったり、他に興味が移ったり。そう考えると、波こそあれどコンスタントに6年聞き続けてるってかなり稀な気がする。

音楽(に限らずなんでもなんだけど)、聞く時間、時期、場所、気分、年齢、何年前かとか、いろいろ作用されるわけで、一定評価にならないじゃないですか。

自分はどっちかというと、今いいと思うものを糧に次他に良いものを探したい人で、身の回りを自分が良いと思うもので埋めたいみたいな感じで、しかも平積みしていくイメージだから、上に積めば積むほど下の良いものを引っ張り出すのが大変になっちゃうような気がしてて。

だから6年間、もちろん上にたくさん積んできたけど、その度にまた上に置きなおしてきたのかね。よくやるわ自分、って感じだ。

 

最後にミーハー魂爆発させとくけど、名前覚えもらえるとやっぱり嬉しいね。

 

あ、あと元町と神戸三宮の中間くらいに最高な飲み屋を見つけたからまた行きたい。