映画の感想:少女邂逅

2018/08/23木曜日

少女邂逅』という映画を観てきました。

MOOSIC LAB 2017の作品。

枝優花監督と、「転校生」名義でも活動していた音楽アーティスト水本夏絵のコラボ映画。

 

名前をよく見かけていて気になっていた監督と、高校生の頃に繰り返し繰り返し聞いていた水本夏絵さんのタッグということもあって、とても見たかったし、去年の上映が東京だけだったのを酷く嘆いた記憶もある。8/18から1週間、京都の出町座で限定公開されると知ってやっとの思いで見に行けた。

感想を一言で表すと、心臓をガーゼで優しく包んで握りしめられている感覚のする映画だった。

 

ミユリと高校生の頃の自分が重なって見てられなかったし、紬の言葉が酷く刺さった。

共感、という言葉を安く使うのが嫌いで、自分と他の誰かや創作の中の人物、全然違うのになんで一緒だと思うんだろう、とか、どれくらい目を瞑れば一緒だなんて思えるんだろう、とか、そんなことを思っていました。今でも思っている。

登場人物の気持ちとかを想像するのは楽しいし、例えば主人公目線を自分に置き換えて映画を見ることも多々ある。

けど、こんな風に実在した昔の自分と登場人物を重ねてしかも感傷に浸るなんて初めてのことで自分でもどういうことなのかわからなかった。

安易に共感したとか言いたくないけど、たぶん共感したんだと思う。

苦悩も願望も空気の読めなさも逃げの決意もまるで高校生の自分を見ているかのような不思議な感覚の中、主人公として描かれるミユリの感情を想像しながら、苦味とある種の懐かしみを味わいながら終わりまで心臓を握り締められていた。

 

女の子2人に主題が置かれた映画ということで、ミユリと紬の関係性の移り変わりがこの映画の肝として描かれている。

「君だけでよかった 君だけがよかった」

という映画のキャッチフレーズが効いていて、この映画を見ているうちは、ミユリから紬に向けての言葉として受け取っているこのキャッチフレーズが、終わりに向けて物語が進んでいくうちに、むしろ紬からミユリに向けての言葉じゃないかという考えが浮かんでくる。「よかった」という過去形なのが哀しい。共依存とも言えるふたりの関係性が気持ちは同じなのに決定的にすれ違っていくのがもどかしい。

多分ミユリはどこかで依存している自分から脱することを必要と感じていて、東京の大学への進学を望む。でも進学が叶ってもそれがついに最後まで叶わなかった現実に気づく。それどころか「私には依存してない紬」と「何故か私に執着している紬」の両方が混ざり合った感覚を抱いていて、ついに最後、「紬こそ、私に依存していたんだ」と気づくことになる。「紬が自分にだけ見せてくれる紬という人間」と本当の紬本人のギャップを突きつけられたミユリ、それまで感じてなかった「自分こそが『蚕』なんだ」と気づかされるラストシーンは必見。紬が蚕に寄せていた重ねていた思いの根本に気づいたミユリは、東京へ向かう電車の中で何を思っていたのだろう。あの時の気持ちは想像しても言葉にできない。

 

そしてこの映画は2回見たのですが、1度目見て気づかなかったことに2度目で気づくみたいな(まあよくあるやつ)ことを経験しました。

1度目見ただけでも面白かったけど、2回目では"馨"の存在の可能性に気づかされる。

この映画で、クラスの女子を引き連れてミユリをいじめていた馨、紬が援助交際でお金を稼いでいることをミユリに明かす馨、街を出る寸前のミユリに紬が死んだことを伝える馨。終始ミユリが忌み嫌うそぶりを見せるものの、何か引っかかりのあった馨の存在が、2度目ではまた違った見え方をした。

母とミユリの食事シーンでの母のセリフの"カオルちゃん"も近くの大学に進学するから、ミユリもそうしたら?と何気ない提案の中のカオルちゃんこそ馨なのだし、紬の援交を伝えるシーンでもアルバムを見返して、たこ焼きを家族で作って食べた時のエピソードを蒸し返したり、極め付けは、本屋で沖縄のガイドブックを見ているミユリと紬の二人を店の外から見ている視点のあのワンカット、ミユリが視点に気づいて店外へ目をやるとその視点もはけるようにフレーミングする。明かされてはないけど、あれは馨視点なのだろうな。この映画の中でミユリ視点、紬視点以外には、馨視点のこのワンカット以外には人物視点の映像はない。思い返せば思い返すほど、馨という人物のこの物語での主張みたいなものが大きくなっていく。

紬を尾行して援助交際を突きとめた馨、何が目的でそこまでするんだろう、と2回目で引っかかりが大きくなってモヤモヤした。最終的には、馨に関しての映画内での描写はそれ以外にはあまりにも少なく、想像で補うほかないのだけど、馨も、ミユリに対して何らかの執着、何らかの依存心を持っていたんじゃないかなと。

序盤にミユリの拠り所だった蚕を「お前いつまでこんな狭いところにいるんだよ、私がもっと広い世界を見せてやるよ」と小さく呟いて森に投げ捨てるあのシーンが鍵なんだろうなとは思う。

この映画『少女邂逅』において、「邂逅(カイコウ)」と随所に出てくる「蚕(カイコ)」はかけられているのは、まああからさまなくらいなんだけど、つまりは「少女=蚕」という構図も示されてると考えられるわけで、馨はグズグズしてるミユリに対してイライラしていて、いつまでそんなところにいるんだよ、お前はそんなところにいるやつじゃねえだろ、と伝えたかったのか....??とか思ったり。(じゃあそもそもいじめてんじゃねえよ、とも思うが)

「現実見ろよ」ってセリフもなんか高校生活そのものが虚像なんだと言っているような気がしなくもない。というか、そういう風に考えないと、わざわざ紬を嗅ぎ回って援助交際証拠写真を撮ってミユリに突きつける意図がわからないし、ミユリが髪型を変えてクラスの子らに受け入れられ始めてからいじめの描写がなくなったのも「ミユリが外に向けて歩み始めたから」なのだろうか。なんにしろ描写が少なくて本当に想像に頼ることしかできないけど、馨が重要な役どころなのは間違いないと思う。

馨については、これまでの出来事とか事細かに年表を作って人物像を設定してあるとのことだし、映画としてカメラにおさまってない馨視点での心の機微が本当に気になる。

自分の感覚だと、紬は自分が"蚕"だと確信していてそれに抗った人物として、ミユリは自分が"蚕"だと最後に気づく人物として、馨は自分が"蚕"だと気付いてそれを受け入れた甘んじた人物としてそれぞれ対比できるように書かれてたのかな、と。

「どこらへんが女の子2人の映画なんだ。3人の映画じゃないか」とすら思う。

 

まだ映画館で観れる機会があるようなので、3度目も考えている。追記するのか、紐付けるのかまだわかんないけど、楽しみだ。

 

 

追記

この作品のアナザーストーリーとして、YouTubeにて『放課後ソーダ日和』(全9話)が公開されている。これの感想も併せて書き残しておきたい。

 

 

2018/08/05(Sun)

TIFに行ってきたよの話。

 

Tokyo Idol Festival、通称TIF、国内最大規模のアイドルフェスティバルで、2018年は8/3~8/5の三日間開催、総勢207組ものアイドルグループが出演したそうな。
さらに(?)グループの枠を超えたコラボステージも魅力的。
推しているグループも出演する模様。

 

僕は割と音楽好きな方で、しかもバンド、アイドル、SSW、歌謡、ロック、ファンク、EDM.....なんでもござれな感じではある。しかしだね、「曲」単位での好きと「グループ」単位での好きはこういうイベントに行くにあたっては違うよね。

推してるグループは是非観たいけど、他の時間「ちょっとだけ興味がある」程度の意欲しか持てない自分はこういうフェス形式だったり対バン形式のイベントに変な苦手意識がありまして。

7月に行ったアイドル横丁と今日の TIFと、自分の苦手なイベントに身を投げたわけですよ。飛び込んでみてそれからどうこう考えようと思いまして。

 

結論から言うと、苦手意識は払拭されず。今後も苦手だな〜苦手だな〜って言っている姿が想像できる。でも、めちゃくちゃ楽しかった......。

 

推してるグループが夏にこだわる理由が少しわかったかもしれない。
夏が、TIFが、横丁が、どういう意味を持っているのかなんとなく想像できるようになりました。

推しごと的な意味でも TIFめちゃくちゃ楽しかったし、「ちょっとだけ興味がある」程度の好奇心もうまく転じてくれて、他にもいろいろ演目を観れて楽しかったですね。

気温・湿度の高さと日差しの強さと人口密度のクアドラプル・パンチで頭痛と動悸と軽い吐き気、浮遊感が襲ってきたときはこれが噂の熱中症かと焦りましたが、大事になる前に風通しの良い日陰に避難して事なきを得ました。

「ちょっとだけ興味があった」グループが解散を発表したこともあり、ミーハー心全開で観にいったり、かつて一瞬マイブームになったグループを観たり、もちろん知らない曲ばっかりやることになるのだけど、音楽は知らなくても楽しめるからね。よかったよかった。

 

 

話がすこし逸れるけど、知り合いの方と話しているうちにひょっこり浮かんできた考えがあって、つはるは自分に対してのマイナス事象を認識する感覚が鈍いんじゃないか説なんですけど、これはいったいなんなんだろうね。今度ゆっくり時間をかけて考えてみたいし、他の人はそんなに鋭いのか話を聞いてみたいとも思う。
変な話、「これは自分にとってマイナス事象になるんじゃないか」という(被害妄想からくる)疑心の感覚はめちゃ鋭い。でもほんとにそれになると気づけないのだよね。なんなんだろうねこれ。

全部勘違い思い上がりかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、気になる気になる。

 

下書きの墓標

ツイッターの下書きに溜まった日の目を見ることのなかった独り言のお墓を建てることにしました。

 

「私はこう思っています」っていうことを歌なり写真なり絵なりのなんらかのメディアを使って表現することはいわば自らの存在証明だと思うんだけど、そこでちょっと面白いなと思うのは、他人の表現の集積で自らの存在証明ができるという点

この時期「共感」とかの意味を考えたりもしてたな

 

「チェックが3つ以上ある方はご注意!!」みたいな病気のセルフチェック、だいたい8割くらいチェックつくし病気のエンターテイメント施設

最近も心身調子が悪うございます「◯◯のエンターテインメント施設」という強いワードを作り出した水野しずのセンス。

 

「永遠の○○」って言わば人類のロマンみたいなところがあると思ってるんだけど、今のところ人間が得られる永遠って永眠しかなくない?

別にロマンではないわなみたいな人、永遠の何かを見つけた人はごめんなさい。

 

道路挟んで向かいの戸建てのお父さん、タバコ吸いに外に出てくるんやけど、挨拶する間柄になりました。「ヨッ✋」てしてもらえるの嬉しい

日除けに簾を導入したばっかりに僕のタバコ定位置とおじさんのタバコ定位置との間に壁ができてしまったの悲しい

 

努力は必要だし、失敗したときに後悔することはあるけど、他人に対して「努力すればなんとかなる、なんとかならないのは努力が足りなかったからだ」的なことを押し付けるのはなんか違うと思うので絶対しないしされたくない

わがまま。

 

セクハラだと自覚しながら物言うやつ居らんやろ....自覚がどうとか問題じゃないって....

これしかニュースやんない時期あったよね。

 

電車で寝てる人がふらふら肩にぶつかってくるのにイラッとしない方法って何かあります?

これの数日後に可愛い女の子が肩にもたれかかってきたのにイラっとしなかって「人間....」ってなった

 

年端もいかない女の子たちに「脱いだら売れる」って思わせちゃうような社会いやだね

昨今の地下(半地下、地底)アイドルの性的暗喩を含むような曲だったりMVだったりパフォーマンスだったりを見て

 

ちょっと出てる前歯を隠すみたいな口元とか、リップを馴染ませるみたいな口元してる時の表情が一番好きなのですが、だれかわかってくれる方は居りますか

前歯フェチのお話。人からの下瞼についての指摘とか、目と口元の距離とかに気づいたりとか。人の「好き」は奥深いね(?)

 

未分不相応なので人間辞めたいという人間らしい感情を持っていることに安心するの辞めたいな?

自虐で安心は人ならではだけど精神衛生上良いけど良くないね

 

「普通」とか「まとも」とかあんまり好きな言葉ではないけど、普通にまともな生活してたらハラスメントの類は起きないはずなのになと思う。ハラスメントにならないように注意するって、なんか、もともと変。

でも社会の根底では違うんだって。嫌になるね。

 

映画を観た感想で他の映画の名前を挙げるの、ちゃんと言い得てないようで嫌なんですけど、吉開菜央監督の『ほったまるびより』、映画『ひなぎく』を観たときと近い感覚になりました。

吉開菜央監督の作品面白かったなあ。YouTubeの監督のチャンネルからもいくつか見れるので見返そう。

 

いくら服やインテリアや雑貨がオシャレだろうが「#オシャレさんと繋がりたい 」って言葉が全然オシャレじゃない

今思えば、十数年前でいうチャットルームを開設するみたいな感じでこういうハッシュタグって生まれるんだろうか。

 

時々悲しくなるのが、正義の名の下に罵り口になってる人を見かけること。その言動がどんなに正しくても残念なことに火種にしかなってない。ただの綺麗事だけど、自分が義憤に駆られてそれができるかはわからないけど、応援したいだけに強い罵り口は使って欲しくないなと思います。

どんなに応援したい主張でも罵詈雑言の応酬だと一歩引けてしまうのです。中身で判断とは言うけど、実際それができるときってなかなかないな

 

「平等」も捉え方によって、言葉の選び方によっては「差別」って言えるじゃないですか。その言葉がどういう意味で使われているか定義づけが要るわけで。でもツイッターは字数制限あるし長々と書けないわけで、何が言いたいかというと「発信」にこそ向いているけど「浸透」には向いてないツール(文字数

考えがまとまらないまま放ったらかしにしてたやつだ。

「平等」を屁理屈でこねくりまわせば「差別」になる以上、誤解が毎秒生産されるツイッターじゃ本人が願う形で「浸透」するのは夢のまた夢かもね、みたいなことだった気がする。

違う話だけど、どこかの研究所がツイッターでの所謂「議論」みたいなものを解析した結果95%の人が最初から最後まで意見を変えてないんだって。みんな喧嘩腰でやってきて殴り合うのやばいでしょ。

 

今歩いてる僕の横を通り抜けてお迎えの車に乗り込んだ小学生の男の子、車に乗り込むや否や扉が閉まる前にTシャツ脱ぎ捨てて半裸になってて「元気だ......」ってなった。

目の前で起きたほんの数秒のほっこりエピソード。

 

生活圏内で一番美味しい麺屋、リンガーハット

たしかに長崎ちゃんぽんリンガーハット美味しいけど、ラーメンのほうが好きなのに。ない。

 

佐賀関という大字を初めて聞いたのといい、佐賀県じゃなくて大分県にあることに困惑したのといい、「大字」という地名区分があるのを初めて知ったのといい、「おおあざ」と読むことを知ったのといい、

学がないという話。

 

一つの言動でそれまでのその人の全てが覆ることってなかなか無いことだと思うんだけどわしが鈍感サイコパスなのかそういう人が短気なのかどっちだ

手のひらクルーを傍目に見て。無意識なのかな。もしかしたら僕もそういうことしてるのだろうか。

 

作り手側だと「好きだから」だけじゃ根拠不足みたいなとこが根付き過ぎて、消費の側なのに「好きだから」だけが愚かしいように思えてしまうの拗らせてる

拗らせてる。もっと自由だよ。

 

 

 

以上〜〜〜〜〜。

 

2018/05/07(mon)

ギア East Versionを観劇してきたヨ

 

ギアといえば京都。

5年も住んでいればあの看板を見ないわけないし、三条通りのあのビルの前を通らないなんてことはないわけで、

「いつか行こう  いつか見に行けたら」と思っているうちに、いつの間にやら僕の方が引っ越してしまった。

「ギア」については「あのビルにある専用の劇場でやってる演劇」くらいの認識のまま京都を離れ、

その年に関東でEast versionとしてでんぱ組.inc藤咲彩音がドール役で出演するとの情報を聞き、これは行くしかなかろう、と。

 

映画にしろ演劇にしろ、本当に楽しみな公演は自分がまっさらな状態で臨みたい気質があるらしく、今回も何やらドール役1人とパフォーマーが4人と言葉を使わない"ノンバーバルパフォーマンス"だということくらいの前情報で鑑賞してきました。

あと楽しいし感動するよ!ってくらい。

(なんで京都に5年住んでこれしか知らないのか)

 

極力、感想とかも読まないようにして、いざ観劇。

ネタバレなしで一言で感想を言うと、誇張なしに笑いあり涙ありでした。

ほんとうに「うおお」だの「あああ」だのが口からこぼれてしまうくらいには楽しかった。

京都に戻った際には、是非ギア(無印)も見てみたいと思うのです....

 

そして、個人的に感想を起こしておきたいので

 

⚠️以外ネタバレ含む感想⚠️

 

個人的に重大だと思うこともネタバレで書いちゃうかもしれないから、見る可能性が少しでもある人は絶対に公演を観る前に読まないでネ。

 

 

 

 

 

 

 

まず最初に言いたい!

彩音さんが可愛かった!!!!!!

 

 

よし。

 

 

さて、4人のパフォーマーと上では書いたけど、「ドール」に合わせるなら「ロボロイド」と書かねばですね。

 

人が去ってしまった元おもちゃ工場での「ロボロイド」達と「ドール」のお話。

 

このロボロイド達がなかなかにくせもの揃いで、ヘマやらかしたり、その責任押し付けあったり、人間臭さが行動に滲み出ていて、憎めない愛おしいキャラクターでした。

ドールと出会ったのも、ロボロイドのどんちゃん騒ぎがきっかけ。

どんちゃん騒ぎで天井が落ちてきて、その拍子にパッケージごと一体の人形が落ちてくる。これがドールとロボロイドとの出会い。

 

人形がドール役の演者と切り替わるシーンは予期してなかったので素で驚いた。

 

不思議な力で1人でに動けるようになったドール。

まるでちびっ子のごとく好奇心旺盛で、いろんなことに興味を持ってお騒がせ案件を乱立させていく中で少しずつ体を動かすのにも慣れていく。

 

そしてロボロイドとドールが握手した拍子に、ドールから不思議な力が流れ込んで、一定時間人間のように滑らかな動きができるようになり→パフォーマンスという流れ。

ちなみにパフォーマンスの中身は

赤…パントマイム

黄…ブレイクダンス

緑…ジャグリング

青…マジック

でした。

これまたパフォーマンスが凄くて、個々のパフォーマンスだけでも凄く楽しめるのに、それがまたストーリーに繋がっていくからすごい。なんだろう。ミュージカルとかに近いのかな?それぞれのシーンでパフォーマンスにストーリーを持たせて展開していく。

 

「握手すると楽しいことが起こる」と学習したドール。それをからかうように握手を寸前で避けていくロボロイド、だんだんと楽しくなっていくもんだからどんどんどんどん事が大きくなってどんちゃん騒ぎバージョン2。

あれよあれよと工場の暴走騒ぎにまで発展して暗転。(ここがとても楽しかったのだ。是非また見たい)

 

ドールが目を覚ますと(この起き上がるシーンではもはや仕草が人間と同じように振る舞えるようになっている)工場は電気が落ちていて、ロボロイド達も最後のイタズラ心で手を出したまま止まって動かない。

ロボロイドが動力を失ってもう動かないと悟って、涙が流れたのに気づいて初めてドールは「悲しい」という感情を自覚する。言葉にならない声で、捻り出すように悲痛に叫ぶドール。 

 

個人的にはここのシーンが一番だった。

「ノンバーバルパフォーマンス、言葉を使わないから年齢国籍関係なく誰でも楽しめるよ」

って言ってたせいで、(いい意味で)騙されてしまった。

いつからか声を発しない演目だと思い込んでしまっていた。

言葉を使わないだけで、声は使っていいもんね。

それまでBGMや効果音で場の起伏なんかは表現されていたんだけど、それぞれの感情とかはやっぱり表情や動き、目で見て感じ取っていたわけで、このシーンも当たり前のように「悲しみ」を仕草、表情で読み取って、耳がお留守になっていたところで、ドールが泣き叫ぶ声がまっすぐ耳に刺さってきて、こんなのお手上げです。鳥肌です。

油断していたところで刺激を突きつけられると瞬間最大風速がすごい。ホラーなんかで良く使われる手法に似てるかな。

なんかそれっぽいことつらつら書いちゃったけど、ただただ単純にこの泣きの演技が刺さる。

ロボロイド達ともう遊べないこと、それが自分のせいかもしらないこと、いろんなことが怖くて悲しくて、その純粋な悲しみが真っ直ぐにこっちに届いてきたとき、気づいたら涙が止まらなかったし、思い出して今も泣きながらタイプしている。

 

そしてその後また暗転すると、ドールは元の動かない人形に戻っていて、動力が戻ったロボロイド達が何かを思い出したかのように、人形に向かって手を差し出し、終幕。

この行き違いももどかしくて切なかった。

 

このラストシーンのそれぞれの暗転も「どれくらい時間が経ったのだろう」とか考えてしまった。

ドールが目を覚ましたのが夜で、電源供給が復旧したのが次の日の朝かもしれないし、もっと時間が経っているのかもしれない。数十日あるいは数ヶ月、数年.......

そもそも人が去ってからどれくらいの期間、ロボロイド達が働き続けていたのかも分からない。

これはもう作品の中身とはあまり関係ないけど、そんなことを考えているとドールもロボロイド達もより愛おしくなった。

 

 

90分っていう決して長くない時間の中でパフォーマンスも盛り込んで、ってなると、全体を通してストーリーが特別難解で複雑で奇想天外ってわけではない。小さい子でもわかるようなごくごく簡単な絵本のようなファンタジーなストーリー。

なんだけど、本当に演出演技が素敵だった。

 

繰り返すようだけど、好奇心だけで動いていたドールが、ロボロイドと過ごすにつれて、遊びの中で「楽しい」とか「すごい」とか「ないわー」とか色々な感情を表現できるようになっていく過程が凄く微笑ましくて、一緒に遊んでるシーンなんかはこっちまで楽しくなってくる。

その楽しさが伝わってきたからこそ、突然突きつけられた終わりの「悲しさ」が切ない。

そして観てる側をそこに一緒に乗せてくれる。

 

「子供でも大人でも楽しめる」って謳い文句良くあるけど、大抵「子供を連れてきた親に当たる大人でも楽しめる」か「子供が楽しめる要素・シーン + 大人が楽しめる要素・シーンで構成されてる」って例が多いような気がして。受け取り方の差はあれど、ここまで「子供世代から大人世代まで幅広く楽しめる」を地で行ってる演目もなかなかないんじゃないかと思う。そらロングランも決まるわ....。

すごく楽しかった...。絶対にまた見るんだ....。

 

 

君の名前で僕を呼んで」を見てきたので、いつかそのこともかけたらいいな。

2018/03/23(Fri)

今日は谷川俊太郎展へ。

 

僕は全くと言って良いほど学もなければ文化的教養もない人間なんだけど、大学卒業前後にしてやっと名著と言われる小説をぼちぼちと読み始めてみたり、名作と言われる映画を観たりしている。

小学生の頃にハリーポッターが流行った時も、僕は我関せずとポケモンをしていたし、中学生の頃に山田悠介が流行った時も見よう見まねでバンドを組んで夢中だった。高校で星新一が流行った時には引きこもっていた。活字を読む機会、なんなら文章を「読む」機会は学校の中で完結していたと言っても良い。

僕が知っていた言葉は幼い頃に読んだ絵本や児童書の言葉がちらほら、好きな音楽・楽曲の歌詞、あとは好きな漫画の言葉だけ。ありがたいことにずっと興味のある事柄をのびのびと楽しめる環境に居るけど、いかんせん視野が狭すぎたんだなと思う。今もとてもじゃないけど広いとは言えないが。

 

大学に進学して数年の間に、いろんな人と話すきっかけがあって、周りには話の中で言葉を上手に使う人がたくさんいたわけですよ。知識量で殴り合ったりマウント取りたがる人は嫌いだけど、個人で物事を楽しむためのスパイスに使う人は素敵だなと思った。このブログ、というか日記もその憧れを拗らせて始めたみたいなところもある。

 

話が飛ぶうえにすごく飛躍するけど、最近世の中のありとあらゆるものがエンターテインメントなんじゃないかなと思っていて、現代は「どうエンターテインメントを最大限に楽しむか」が重要なんじゃないかと。変な話「人って、人生ってエンターテインメントでは...??」と思うまである。

芸術史系の講義受けてる途中にふと「ひと昔でさえ人生に楽しみを求め続けた人たちの生きた記録が残っていて、しかも、云十年云百年前に比べたら『生きる』ことはある程度保証されてると言っても良い。じゃあもはや何を学んだとかいくら稼いだとかそれも全部『死ぬまでにたくさん楽しめたか楽しめなかったか』に集約されるんじゃないか」と思い始めたのがきっかけ。学業さえも仕事さえも日常さえも、こっち側がエンターテインメントだと認識すればええやんけ、と。暴論かもしれないけど。

 

そうして、楽しいを求めて数珠繋ぎ的に色々な物事をインプットしています。音楽から小説へ、漫画から映画へ、映画から音楽へ、音楽から舞台へ。幸せなことに知識欲が「それなりに」あるようで、知らないことを知れると嬉しい。頭に置いていた知識と新しく面した物事が繋がると嬉しい。ふと思い返してアレとコレとが繋がったりすると面白い。

作詞提供した歌が好きで気になっていた詩人の詩集や小説、好きな漫画の中で演劇部が公演した演目の原作、好きなバンドが曲に散りばめた文学作品のエッセンス。今は横つながりのイメージでエンタメの背後にいるエンタメを追っているけど、今度はそれが生まれた社会的・時代的な背景も知識として知っていきたいなと思う。たぶん、それも楽しいはず。

 

それだけで既に成り立ってるエンタメを掘り下げたらもっと楽しくなって最高かよってなる日々。死ぬまでこうして過ごして生きたい。「昔は良かった」なんてことを絶対に言わないようにその時その時の好きなことを楽しんでほしい。将来の自分。せめて「昔『も』」にしてほしい。

 

変な青臭い話にそれてしまった。話をグググっと戻して、谷川俊太郎展について。

僕の大学の卒業製作の中でも触れた「言葉と映像の親和性」が顕著に現れていた展示だったと感じた。「言葉は人々の共通認識のイメージを引き出す記号の役割している」ってソシュール大先生が仰ってたように、言葉には映像がついてまわる。そしてこれは僕のイメージなんですけど言葉が上手な人は映像がクリアで滑らかな傾向があるなと。4Kで秒間60コマみたいな。粗めのGIFと比べると精細さはあるよね。(もちろん粗めのGIF的故にクセになる言葉遣いの人も居る)そして僕のこれからの研究内容でもあるんだけど、映像は空間性を持っていて、画面で平面だろうかなんだろうが人は映像に空間を覚える。その空間の奥行きと拡張とに興味がある。

今回の谷川俊太郎展は言語表現と映像と空間が本当に噛み合って、それでいてズレていて、リズムができていて、「ああ、ずるい。これだ。求めていたこと、したいことの一例がここにある」ってなった展示だった。

 

一つ目の展示なんて最高で、老若男女さまざまな音声で一音一音ぶった切られて、口元だけの白黒映像や平仮名一文字だけが、見る側を囲うように並べられたモニターの上を走っていく。

「没入感」では言い表せない。小気味いい一体感のなか、思考が奪われていくような感覚。言語表現のはずの詩の表現が、言語の中と外を行ったり来たりして詩・言葉なのか音楽なのか曖昧なままバスの洗車機に突っ込まれたみたいなシンプルなのに情報過多。それが楽しい。あああ好きだったなあ。

言葉は映像と言ったけど、それを脱却する試みだったのだろうか。

 

2つ目は馬鹿でかい直方体が複数立っていて、その一面に詩が一文ずつ載ってて、隣接してる2面にはその一文から連想される谷川氏に、谷川氏の詩の制作にまつわる物が並べられている。

1つ目が感覚に訴える展示だとするなら、2つ目は論理的に分解して見せた解剖図のようなものとでも言えるのかな、谷川氏の詩と言う出発点から別々の方向に展開して成ったんだろうな、と。それでもあくまで詩的に見せているんだからすごい。

そして、また見せ方が面白いなあああと。1つ目の展示を抜けて2つ目の展示の部屋に入ると、その詩の一文の面がこっちを向いていて、その一文を「横から見ると」解剖図のように展開されている。文字通り「横から見ると」でふふふってなる。1つ目もそうだけど、言語表現を空間に拡張していくときに、徹底的に丁寧に楽しんでやろうみたいな気概が見えて、そんなの楽しくないわけないじゃん......と。

 

3つ目は大きな何もない白い部屋の壁面に大きな文字で詩が書かれていて、例えるなら小人になって国語の教科書を読むとしたら、だろうか。

言葉は映像を伴うってのが一番体感できる展示だった。大きな白い部屋には何もなくて、詩の文字だけが見える。そうすると、白いだけの部屋に詩の情景が映って(写って、移って)色が出てくる。大げさに言えば、誰とも完全な共有はできないけど、人間ってプロジェクターにもなれるのか......って思ったりもした。小人になってって書いたけど、正確には目を閉じて、まぶたの裏に詩が書かれてある、の方が近いかもしれない。それを視覚的に、空間的にやってしまったんだなという感じ。

 

最初に書いたように学も教養もないので、これらの詩がどう優れているか、どう評価されているのか正確に読み取る頭はないけど、言語表現を視覚的にそして脳内においての"視覚的"に切り込んだ展示で僕は大満足でした。以上!

 

日記なはずなのにまとめるのに3週間以上かかってやんの