映画の感想:『カランコエの花』

2018/09/11(Tue)@アップリンク渋谷

中川駿 監督/脚本

映画『カランコエの花』

 

 

を見てきました。まだ見てない人、見たいと思ってる人は読まないで。お願い。

 

 

 

正直言うと、感想を述べることすら、少し躊躇するLGBTについての映画。

差別、偏見、間違い......なくすためには誰かが傷ついているリアルな現状を見せる必要があるのかもしれない。そして、それは映画の役割の一つなのかもしれない。

感想すらも躊躇したり言葉を選ぶというのも言いかえれば一つの偏見の形なのかもしれない。「腫れ物に触るみたいに」になっているのかもしれない。そう考えるとまた慎重になって......でもそれが偏見で......という無限ループに陥ってしまっている。

丁寧に接する、なんでもないように振る舞うという意識が、そもそも特別視している、という危険性をはらんでいて、言っても仕方ないのかもしれないけど、仕方ないかもしれないって思わせられる今の現状が残念でもどかしい。みんなと同じように振る舞う、という意識でみんなと同じように振る舞えるのだろうか。

 

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急遽LGBTについての授業が行われ、それも自分のクラスでしか行われてないことに気づいて「このクラスにいるんじゃね?LGBT」と興味本位、軽い気持ちで犯人探しのように当事者を割り出そうとする男子高校生。差別や偏見をなくしたい、そんな養護教諭の気持ちなんて考えもせずに、当事者の気持ちなんて微塵も考えずに「そんなキメエやつホントにこのクラスに居んのかよ」と吐き捨てる。

 

自分が中高生のときってどんなだったっけ。「気持ち悪い。オカマ野郎」みたいな言葉が聞こえていたような気もする。高校生なんてそんなもんだと言って終わりにはできないけど、いつだって自分が正しくて、自分が楽しめることに目ざとくて、人生で一番浅はかな季節。自分だってそういう面がなかったとは言えない。というか、自分の経験した中高生の思い出の中では、少なからず居た。こういう考えの人は。だからこそリアルに映ったし、棘のようなものが刺さっていく。

 

嘘をつくとき鼻の頭をこする先生の癖のせいで、噂程度の話が確信にかわり。当事者をあぶり出そうとする生徒と、踏み込むのはよくないという生徒の迫合いが起こり少しこれまでと違うピリついたぎこちない空気がクラスに漂う。

この映画の中での演者のとるLGBTへの態度はすごくリアルだと思う。「気持ち悪い」って声も「どうなの?怖くないの?」っていう声もどこかで聞いたことあるようなものだし、「保健室で聞いちゃったんだ.....今すごく辛そうにしてる。力になってあげたいけど、どうしたらいいのかわからない」と泣きながら明かした沙奈に対しての主人公の月乃の第一声が「誰......なの......?」だったのもリアルで見ていて辛かった。

 

この映画では、登場人物のほとんどがいわゆる「間違い」を犯し続ける。先述した男子のような差別や偏見は良くないとわかってても、誰が当事者なのか知りたくなる月乃の気持ちも分からなくもない。

桜がレズビアンであることを知った月乃、桜と接するときに「何も知らない体で」に努めてぎこちなくなる。母との会話での「怖くないの?」って言葉が足枷みたいに体を重くなる。

桜の恋愛対象が女性で、もしかしたら私なのかもしれない、二人乗りで背中に体を預けて来た桜にどういう気持ちが含まれているのかわからなくて、今まで桜とどう接して来たのかが全て覆されたみたいな「わからない」だけが頭の中で繰り返し回っていたのだろうか。ほんとうはそうじゃないっていうことは頭ではわかっているのに体も口もついてこない。

 

この時、桜は「『自分がレズビアンだということ』を月乃が知っている」と気付いていたのだろうか。沙奈が桜に声をかけたりしたのだろうか。なにも描写はされていないけど、「こんな形で伝えるのはーー」と今にも泣き出しそうな、申し訳なさそうな表情で話を切り出そうとする桜と、それを敏感に察知して作った表情で受け答えようとする月乃、どこか噛み合わないまま、桜も言いかけたことを仕舞ってバスに乗る。

 

終盤、黒板にでかでかと書かれた「小牧桜はレズビアン」の文字、それを見て言葉を失う月乃。その事実を知っているのは自分と沙奈だけのはず、どこから、誰が、考えても考えてもまとまらない様子の月乃。友人である桜を守らないといけない。桜が褒めてくれた、母からもらった赤いシュシュは、母の好きなカランコエの花に似ているらしい。カランコエ花言葉は「あなたを守る」。今朝母が言っていたのを聞いたばかりだった。

 

黒板の文字列に釘付けになり言葉を失い動けないでいる生徒たちの元に、桜が戻ってくる。月乃が声を大きくして言う「違う。桜は違う。桜はレズビアンなんかじゃない」という言葉を聞いて「あああぁぁ........」と言葉が出そうになる。

守りたかった、でもその言い方じゃない。桜は誰よりも月乃に自分のことを理解して欲しかった知って欲しかった。だから傷つけてしまった。

黒板の文字列は桜が自分で書いたものだった。この数日の間、まるで何かの犯人みたいに探されていることで消耗したのか、月乃へ思いを伝えたかったからなのか、月乃にわかってほしかったからなのか。月乃さえ、わかってくれれば良かったのだろうか。だからこそ、月乃の言動で傷ついた桜は教室に戻ってくることはなかったし、月乃が去ってしまったあとで、全部気づいた月乃は後悔と懺悔とで涙を流した。

 

悪意のないことでも誰かを傷つける種になったりする。むしろ、誰かを傷つけることの多くは悪意がないことだったりするのかもしれない。この映画の題材は最初にも書いてある通りLGBT、つい先日話題になっていた新潮社のアレも、本当のところどうかわからないけど「悪意がない」という顔をして書いているものだった。当然、当たり前、普通、一般、通常、基本、普段何気なく会話で使うこれらの枕詞も、誰かにとっては刃物同然。そういう可能性のことに気づくこともできないまま、 考えつかないまま生きることはできる。でもいつか、この映画の月乃みたいに、生徒みたいに、悔やむことになるのかもしれない。この映画は、少し昔の時代だったら何に後悔しているのか、何が間違いだったのかピンと来なかったかもしれない。希望だけど、将来は「なんなんだこの話は!こんなことがあってたまるか」と百人が百人憤慨する映画になっていて欲しい。今だからこそ、そんな昔から将来へ移り変わっていく現代だからこそ、悲しくも鋭利な棘として、観た人の心にそっと残り続けるのだろうと思いました。

 

僕自身、月乃やクラスメイトのように、ちゃんと(という言葉がふさわしいのかもわからないけど)知っているわけではない。漠然と、差別や偏見はよくないこと、そして人種や生まれ、性的指向などで差別や偏見が行われている現状については教えられてきた。

差別や偏見をしないぞ、っていう意気込みがどれほど差別や偏見をなくすことにたいして効果があるかはわからない。頭に書いたように、これも言ってみれば差別や偏見の形なのかもしれない。理解あるよだとか、寛容だよだとかが、人によっては少し変な言葉として受け取られるかもしれないことくらいはわかる。自分はカミングアウトをされたことはないけど、誰とも接して来なかったかどうかはわからない。その誰かを、自分は何気ない会話のなかで差別してこなかっただろうか。

考えるばかりだけど、考えるきっかけをくれたこの映画のことは忘れないでいようと思います。

 

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少し構成的な話にずれると、基本的に時系列で進んでいくこの数日間、最後に月乃が言動を悔やむシーンのあとで、この数日間の発端となった、桜が養護教諭に恋愛相談をする日のことが描かれていて、描かれながらのエンドロールで、少し浮かれた調子で声を弾ませながら、月乃のことを話す桜、この数日後のことを自分たちは知っているから、本当に胸を締め付けられるような、棘が刺さって抜けないような、そんな。

今まで見てきた映画で一番綺麗で一番悲しいエンドロールだったと思う。

 

あと、お調子者の彼、実は桜のことが好きだったようで、彼も彼なりに自分のしてきたことを悔やんだんだろうな、と思いました。面白がる仲間と、急に深刻そうな顔で止めようとする彼の表情が印象的でした。