先日の補足

この間書いた「してあげる」が嫌いについての補足。

なぜ僕がそういう考えに至ったかの話。

 

小学生の頃は僕の努力じゃどうしようも変わるものではないところが同級生のからかいの絶好の的となり、少し苦しい時期もあったけど、少年野球をしていたと言うこともあり、それなりに活発な至って普通の少年だった。

中学生になると、その「からかい」も無くなり、むしろ好意的に見られることが増えた。学内では勉強も上位、運動もそつなくこなし、それなりに異性から好意を向けられることもあった。いわばスクールカーストのような構図でも上の方のグループに居たし、先生からもそれなりに信頼されていて、向かうところ敵無しとでも言うのだろうか。「俺にできないことはないのかもしれない」くらいの、まあ完全に世の中ナメくさってる調子に乗った中学生の坊やだった。

それも高校に入って中学よりも少しだけ開けた社会になるとだんだんうまくいかないことの方が増えていった。まあそれまでが少々できすぎていたのだけど。
勉強にだんだんついていけなくなり、中学で部活をやめた体は少しずつ言うことを聞かなくなった。当時付き合っていた女の子から振られたり、クラスメイトのノリについていけなくなって浮いたりと一気にしわ寄せがきた。勝手に自分に期待していた僕はあっさりとその期待を裏切られ、平凡な人間だということをまざまざと突きつけられた。

自業自得というか、身の丈に合わない贅沢をしていたというか、自分の思い描いていた自画像が理想像よりに寄りすぎていて、そのギャップを受け入れられず、また周りの人たちの目も怖くなった。中学生の時にときんときんに研ぎ澄まされた見栄まみれのプライドは簡単にへし折られ、塞ぎがちになった。自分にとっての「期待はずれの自分」を他人にとっての「期待はずれのあいつ」と信じてやまなかったし、メンタルをやられて体調を崩して休みがちになった自分は完全に『「普通」のレールからはずれちゃった人』でしかなかった。

幸い周囲の環境、人間関係は悪い面ばかりじゃなくて、むしろ恵まれていた。でも当時の自分は「期待はずれな自分」に良くしてくれる人の心情を全然想像できなくて、なんのメリットを見出してこうも優しくしてくれるのか、同情か、「かわいそうな人」として接されているのか、こっちは返せるものは何もないのに、とか思っていた。
それが積もり積もった結果、いつも事あるごとに顔を出してくれていたある一人の友人にその内容をそのまま八つ当たりしたことがあった。するとケロッとした顔で「私がそうしたかっただけ」だとむしろ不思議そうな顔をして言った。まったく予想だにしなかった返答に半ばたじろぎ、でもその言葉でつっかえが取れたような気がした。

人間関係を完全な損得勘定でしか考えられなかった自分は今の自分の状態では接する人皆に気を使わせてしまう、足を引っ張ってしまう絶対的に損を振りまく人間と本気で思って居たし、だからこそ嫌な顔をせず(当時は見せずだと思っていた)接してくれていた人へはそれに見合うお返しができないことがまた自分を苦しめるものになってたのだけど、その考えが揺らいだ瞬間だった。

僕が散々「してもらった」ことは彼女が「ただしたいと思った」ことでしかなかった。
僕が「これだけのことをしてくれた」と言うと、彼女は「ただそこにいただけだよ」と言う。
今でもその言葉を思い出しては自分を律することができるし、支えになっている。

「あの時これこれしてくれたお陰でこれだけ救われた。救ってくれてありがとう」と僕は本気で思っているけど、それを伝えてもきっと彼女は「ただそこにいただけだよ」と答えるのだろう。彼女に限らず、僕の親しい友人達はそういう考えの人が多いような気がする。僕がどれだけその後救われたかを全然理解しようとしてくれない。平気な顔して「君が勝手に救われただけだよ。僕は何もしてない」とか言うんだきっと。しかも謙遜とか照れとか、全くそういうのを微塵もこれっぽっちも感じさせないんだ。本気でそう思っているっていうのを疑う余地がないくらいでそう言ってのけるんだよね。本当に感謝しかないし、本当にその生き方考え方が好きだと感じた。

 

 

という経緯があるったのサ。とりあえずあらましを。多分続く。